みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
「迷わず足切断 がんと戦った高校生」というヤフーの記事(元記事は「あなたの静岡新聞」)が目にとまりました。
この高校生、寺田歩生(あゆみ)さんが戦った『がん』は、約40年前に私がかかったのと同じ、若年性骨肉腫です。私の場合もある意味「迷わず足切断」でしたが、手術直後にすごく後悔しました。
※そのときの証しは、ブログ右側の「ブログ内検索」で「骨肉腫」とサーチすると、いくつか出てきます
私の場合は、命を生かすための切断でしたが、歩生さんの場合は痛みを和らげるためのものだったとのことです。そして彼女は勇敢に病魔と闘い続けた末、わずか18歳で亡くなりました。しかしその人生は決して無駄ではなく、残された人々も、これから生まれてくる者たちにも、生きる力を与える記録となるでしょう。
「
あなたの静岡新聞」では発病以来の歩生さんの人生をシリーズで特集しています。中学生の体育祭の前後に痛みを感じたこと、両親は最初「成長痛」だと思ったこと、切断の前に人工関節を入れていたことなど、私と同じで、他人事とは思えませんでした。
私は左膝の骨を、当時新素材とうたわれていたニューセラミックで作った人工骨と入れ替えて、新しく転校した中学(山の下中学校)に数ヶ月だけ通いました。しかしある朝、まったく体が動かなくなり、大学病院に救急車で運ばれました。主治医が私の左足に注射針を差し込んだところ、まるでラードのような黄色い膿(うみ)が大量に注射器に流れ込んできたことをおぼえています。体がセラミックを受け入れず、内部で化膿し切っていたのです。それ以来、一度も学校には行けませんでしたが、校長先生が病室に来てくださって、私のためだけに卒業証書を読み上げてくださいました。お名前も覚えていないのですが、心から感謝しております。(そのときは生きることに精一杯で、とても感謝どころではありませんでしたが)
あれから40年が経ちましたが、骨肉腫は初診時に転移がない状態で四肢に発見された場合でも、5年生存率は70%程度とのことです。逆に言えば、発見が早くても3割の人は5年以上生きられない、恐ろしい病気であることは今も変わらないということです。自分がいまこうして生きていることも決して当然ではなく、一日一日が恵みであるということはこの病気にならなければわからなかったかもしれません。どうぞ歩生さんの記事を読んでほしいと思います。そして彼女の人生が一人でも多くの方に記憶されますように。
聖書箇所 『ルカの福音書』20章9-19節
9また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。10収穫の時になったので、彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。ところが農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた。11そこで別のしもべを遣わしたが、彼らはそのしもべも打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた。12彼はさらに三人目のしもべを遣わしたが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。13ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』14ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った。15そして、彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。こうなったら、ぶどう園の主人は彼らをどうするでしょうか。16主人はやって来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。」これを聞いた人たちは、「そんなことが起こってはなりません」と言った。17イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。18だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」19律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。
2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。教会総会が近づいていますが、総会の中でたびたび牧師に質問されることがあって、「先生、健康診断は受けましたか」。教会の予算でちゃんと予算化しているのに、毎年実績がゼロになっていますので、ああ今年も先生受けなかったのね、と。そこで今年は一念発起して、先日、人間ドックに行って徹底的に調べてきました。もっとも教会の会計年度は12月で閉めるので、結局今回の総会資料でも実績ゼロになっているのですが。
新潟市の町中にある、比較的大きなセンターで一日人間ドックを受けてきたのですが、生まれて初めて、肺活量の検査をしました。マウスピースのようなものを口にくわえて、限界まで吸って吸って、吐いて吐いてという感じの検査なのですが、私はこういう人前で話す仕事をしていますので、声の大きさ、つまり肺活量には自信があったのです。ところが基準に足りないとその場で言われてしまいました。ただ担当の方が、「初めての検査だからコツがわからなかったんでしょう、もう一回やってみますか」と言ってくださったので、もう一回やり方をよく聞いて、やってみたら、基準以上を満たしてクリアとなりました。「がんばりましたね」なんて言われてうれしいより恥ずかしかったのですが、この経験を通して考えたことがありました。私たちはもともと十分な力を持っているのに、その使い方がよくわからないために、うまくできていないということがあるのではないか、と。信仰生活においても、聖書はよく知っている、しかしそれが、心の中の深みにまで届くことなく、現実の生活を変えていく力となっていない、それは自分も含めて、そういうことがあるのではないかと思いました。しかし神さまは私たちが本来の力を発揮できていないことを残念に思われているかもしれません。十分な恵みと力を与えられているのに、そのことに気づいていない、ということに。
そして祭司長や律法学者たちに対しても、じつは神さまのあわれみは向けられていたのではないかと思うのです。ご存じのように、これらの宗教指導者たちはイエスを批判、攻撃し、最後には十字架につけてしまいました。しかしイエス様自身は、彼らを敵として見ていたというよりも、彼らもまた救われるべき者、本来彼らに与えられていた恵みを取り戻すべき者として見ておられたのではないでしょうか。イエス様がもし彼らを敵と見ていたとすれば、彼らがわかるようにたとえ話を語るということはなかったでしょう。しかしイエス様にとって、彼らは神が収穫を期待して耕したぶどう園と、その管理を任せた農夫たちでした。権威にこだわるあまりに、彼らはイエスを殺すことしか見えていません。しかしイエス様は、彼らがそのような間違った道に気づき、悔い改めに至るように、みことばを語り続けたのです。ですから私たちもまた、世の人々にみことばを語り続けることをあきらめてはならないし、そのために自分自身もみことばに聞き続けることをやめてはならないのでしょう。そのような思いを持ちながら、今日の聖書箇所を読んでいきたいと思います。
このたとえ話に出てくる「ぶどう園」は、神の民イスラエルです。ぶどう園を造った「ある人」とは、イスラエルを神の民として選ばれた神、そしてよこしまな「農夫たち」は、長老、祭司長、律法学者・・・権威にしがみつくイスラエルの宗教指導者たちを指しています。農夫たちは、イスラエルを甘いぶどうとして養い育てるために、オーナーである神から「権威」を与えられました。しかし彼らは「権威」を「特権」と勘違いしました。民を支配し、搾取し、ぶどう園からは血のにおいと叫び声ばかりがあふれました。神は彼らに悔い改めを迫るため、イスラエルの指導者たちに向けてご自分のしもべである預言者たちを数え切れないほど遣わしました。次こそは、あの農夫たちが、悔い改めへの招きに耳を傾けてくれるだろうと信じて。そしてついには、神のひとり子であるイエス・キリストをぶどう園に送ってくださいました。しかし農夫たちはイエス様をぶどう園の外に放り出して、殺してしまったのです。これはゴルゴタの丘でイエス様が十字架にかけられて殺されることを意味します。
しかし神に感謝しましょう。今日のこのたとえ話ほど、私たちに対する神の愛と忍耐をはっきりと伝えてくれるものはありません。殺意に目を血走らせた農夫たちの姿は、誰でしょうか。それは当時の祭司長たちの姿であると同時に、今日生きている人々の姿です。ノンクリスチャンだけではありません。ときどき私たちクリスチャンも、神さまの前に心をかたくなにしてしまうこともあります。そんなとき、どんなに聖書を読んでも心に入ってこないと感じることもあるでしょう。しかしそのような無味乾燥さを感じるということ自体が、恵みかもしれません。そこには、気づきがあるからです。気づきのない人は、無味乾燥さを感じることもありません。しかしもし私たちが、聖書を開いているのに、それでもなおそれが自分の心に届いてこないような感覚があるとすれば、それは間違いなく神があなたに向けてみことばを語り続けている証です。それが心の中に届くようにするために必要なことは、私が自分の心のドアを内側から開けることです。権威や実績、人の評価、あらゆるもので私の心が分厚い壁や鎧で覆われてしまったとき、それを崩すのは外からではなく、内側からでなければなりません。じつは祭司長や律法学者たちが、このたとえ話が自分たちのことを指しているのに気づいた、というのは彼らにも変わるチャンスが与えられていた、ということです。しかしそのチャンスを生かさなければ、何も変わりません。
今週の週報の表紙には、イエス様が私たちの心のドアを叩いている絵を何枚か載せてみました。別々の作者によって書かれたものですが、ある共通点があることに気づくかと思います。
そうです、どの扉にも取っ手がありません。扉は内側からしか開けられないのです。今、イエス・キリストはツタと茨で覆われた扉、鉄よりも硬く、岩盤よりも分厚いかさぶたに覆われた私たちの心の扉の前に立たれ、ノックしています。あなたが内側から扉を開くならば、イエスは必ずあなたの心に入ってきてくださいます。神の恵みと忍耐は、いまもひとり一人に向けられています。心から感謝をもって、歩んでいきましょう。