聖書箇所 『ルカの福音書』20章1-8節 1ある日、イエスが宮で人々を教え、福音を宣べ伝えておられると、祭司長たちと律法学者たちが長老たちと一緒にやって来て、2イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。」3イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。4ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」5すると、彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。6だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。」7そこで、「どこから来たのか知りません」と答えた。8するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」教会の暦では、今週をもって降誕節が終わり、来週から四旬節が始まります。四旬というのは40日という意味ですが、聖書では40という数字は、苦しみを表す象徴にもなっています。40日は約7週間ですが、四旬節の第一週から第六週まではイエスが十字架にかかるまでの足取りを学び、7週目にちょうどイースター、復活を語るというのが伝統的に教会で行われてきた説教のスケジュールであります。今日はまだ四旬節ではないのですが、これからイースターまでの約二ヶ月間のあいだ、イエス・キリストが十字架にかかられるまでの最後の一週間の歩みから、メッセージをしていきたいと考えています。 今日の聖書箇所は、最後の一週間のはじめの日、イエスが神殿で人々を教えていたときの出来事です。祭司長、律法学者、長老たちといった、いわゆるエライ人たちがイエスに文句をつけにやってきました。彼らの言い分はこうです。「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか」。この翻訳では「教えてくれませんか」とソフトに訳していますが、直訳すると「言え」です。じつはこの前の日、神殿を訪れたイエスは、商売人たちがいけにえにする動物たちを売り買いしている姿を見て憤り、神殿から彼らを追い出すということをしました。「宮きよめ」と呼ばれる、有名な出来事です。祭司や長老たちは、商売人たちの売上の一部を受け取ることで自分たちも利益を得ていました。しかしそれはいわゆるわいろですから、表に出せません。そこで彼らはイエスに対して「権威」ということを言って非難したわけです。我々こそ、聖書を正しく語り、民を指導する権威を持っているのだ。おまえはいったい誰の権威を用いて、人々を教えているのか、と。 聖書の中に、「権威」という言葉は、旧約新約合わせて85回出てきます。それを全部調べたわけではありませんが、だいたいの場合、「権威」というのはだれかから与えられるものとして使われています。神から人に権威が与えられる場合もありますし、隊長から一兵士に与えられる場合もあります。いずれにしても、「権威」という言葉は自分から生まれるものではなく、自分よりも優れた存在から与えられるものです。つまり、権威という言葉は本来、人を高慢にするものではなく、人をへりくだらせるものであるはずです。人が自分に権威が与えられていると自覚するとき、それは自分は小さな者にすぎないが、この権威が与えられているとへりくだってその使命に生きていく、それが権威です。しかし祭司長や律法学者たちにとっては、「権威」とは、自分たちこそがイスラエルの宗教的権威であり、その権威をおびやかそうとするイエスは、ここから追い出されなければならない存在だ、というものでした。そして今日、考えてほしいことは、私たちは彼らのように権威を笠に着るものであってはならないということです。 じつは私たちが生きている生活の中には、そこかしこに「権威」がつきまとっています。夫婦の間では夫の権威。親子の間では親の権威。会社では上司の権威。学校では教師の権威。政治では議員の権威。そして教会では、牧師の権威。どんな権威も、もともとは神から発しているものですから、悪いものではありません。しかし私たち人間は弱いものですから、人に仕えるために与えられた権威をいつのまにか勘違いして、他人を支配するために権威を利用するようになるのです。 自分を守るために「権威」が叫ばれるようになると、その組織が病んでいることが明らかになります。会社で上司の権威が、学校で教師の権威が、教会で牧師の権威が、声高に叫ばれるとき、そこでは「権威」という言葉を持ち出さなければ人々がついてこないという病にかかっているからです。イスラエルという神の国は、まさに末期的状況にありました。その末期に神から差しのばされた最後の預言者が、バプテスマのヨハネだったのです。ヨハネはすべての者に叫びました。「悔い改めなさい、神の国が近づいたから」。ヨハネは幼子にも悔い改めを迫りました。長老にも、祭司長にも、律法学者にも、悔い改めを迫りました。人生経験、社会的立場、関わりなく、すべてのイスラエル人に悔い改めを迫りました。「斧はもう木の根元に置かれている。だから良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれるであろう」と。 しかし祭司長や律法学者は、その悔い改めへの呼びかけを、自分たちに対する攻撃であると考えました。我々には宗教指導者としての権威がある。決して悔い改めを必要としているような者ではない。心の中でそう言い張った彼らは、バプテスマのヨハネがヘロデ王に捕らえられたとき、それが明らかに無実の罪であったのに、彼を見殺しにしました。イエス・キリストは、ここでもう一度、彼らの心に問いかけたのです。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか。それとも人から出たのですか。」しかし彼らはまたしても、自分自身の立場を守ることを考えました。神から出たと言えば批判される、人から出たと言えば民衆から攻撃される。彼らはひそひそと話し合い、出した答えは「知りません」でした。そういう人たちに、イエス様も言われました。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、言いません」と。 親の権威、上司の権威、教師の権威、世の中には権威という言葉であふれています。それらの権威は、もともとはこの世界の創造主である、まことの神から与えられたものです。しかし神は、権威よりももっと大きなものを私たちに与えようとしておられます。それは、イエス・キリストを信じる者に与えられる、永遠のいのちです。この永遠のいのちを受け取るためには、自分自身の心を裸にしなければなりません。権威が剥ぎ取られることを恐れて、イエスの言葉に正面から答えようとしなかった祭司長や律法学者に対して、イエスはいっさい答えようとしませんでした。 私たちは、まず自分の心を覆っている鎧を外さなければなりません。私たち一人一人は、確かに神の子どもとして愛され、救われている者たちです。しかし自分の中に、己を守ろうとする見えない鎧があって、神との関係が薄っぺらいものになっていないかどうかを点検しましょう。どんなにエライ肩書も、やり遂げてきた実績も、自分自身を誇るためであればむなしいものです。神が私たちに与えてくださった権威とは、自分を誇るためではなく、誰かの幸せのために生きるためのものです。そして私たちは、イエスがどんなときも人々のために命を使っておられたことを知っています。このイエスが私の中に生きておられることを感謝して、歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会
2024.2.11「心の鎧を脱ぎ捨てて」(ルカ20:1-8)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。