聖書箇所 『ヨハネの黙示録』19章1-10節 1その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。2神のさばきは真実で正しいからである。神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」3もう一度、彼らは言った。「ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」4すると、二十四人の長老たちと四つの生き物はひれ伏して、御座に着いておられる神を礼拝して言った。「アーメン。ハレルヤ。」5また、御座から声が出て、こう言った。「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」 6また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。7私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。8花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」 9御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。10私は御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」みなさん、おはようございます。新年最初の礼拝になりますので、あけましておめでとうございます、とも言うべきでしょう。しかし今年驚いたのは、元旦から大地震ということでした。牧師はコロナ渦になってから、月曜日に翌週の礼拝説教を作って火曜日に録画録音するという生活パターンになっております。月曜日の夕方4時頃、元旦なのに説教準備とはつらいな~なんてことを思いながら机に向かっておりましたら、大きな揺れに襲われました。けたたましいほど携帯の自動音声で津波の注意が来て待機をしていたもので、教会員の方に十分な安否確認の電話ができないままに時機を逸してしまった感があり、申し訳なく思います。津波に注意して下さいという知らせが来ても、こちらとしては二階で待機するくらいしかできません。二階はときどき余震でミシッと揺れるが、一階にいたら津波が阿賀野川、新井郷川とさかのぼってどんな感じで来るかわからない。妻には二階に上がってきなさいと声をかけるのですが、妻は一階でいろいろやっているようでなかなか挙がってこない。階段の上と下での言い争いが今年最初の夫婦げんかになりました。元旦からこれですので、この先が思いやられるところであります。 ただ、よりによって何で元旦なのと思いました。夫婦げんかではなく、地震の話です。今年は366日あるのに、何でその中でよりによって元旦なのかな、と。そこでふと考えたのは、その前日、大晦日に語った礼拝説教です。詩篇46篇、神は我らの避け所、また力。それゆえ我らは恐れない。たとい地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも。これを語ったすぐ翌日に、実際に地震が起こりました。もちろん、因果関係はまったくないことはわかっているのですが、「神だけを恐れる者は他の何物をも恐れない」と語っていた自分はどうよ、ということを思わされました。みなさんはどうだったでしょうか。 今日は、『ヨハネの黙示録』の19章前半を取り上げました。この箇所の前には、この地上のすべての国が、悪の霊的勢力によって支配され、教会とクリスチャンは迫害や殉教にさらされることが記されています。それはこの黙示録が書かれたローマ帝国の時代に部分的に成就しましたが、完全に成就するのは、この世界の終末の時です。それまでは戦争の噂を聞くことはあっても、終わりがきたわけではないと言われ、私たちが生きているこの時代もまた、まだ終わりが来ているわけではありません。 この聖書の箇所においては、地上は悪魔的勢力に支配されて賛美は途絶えてしまっています。しかし天上においては、ハレルヤの大合唱が、御使い、神の民を表す二十四人の長老、またすでに天に帰ったクリスチャンたちによって響き渡ります。意外に思われると思いますが、新約聖書の中で「ハレルヤ」という言葉が出てくるのはこの黙示録19章だけです。私たちは何気なくハレルヤという言葉を使いますが、じつはヨハネの時代の教会においては、「ハレルヤ」は、世の終わりにおける、神の徹底的勝利まで、大事にとっておかれた叫びでもありました。地上においては、神を嘲り、欲望をむさぼる、大バビロンと言われる世界帝国が、崩れ始めたとはいえ、いまも教会を迫害し続けているなか、神は決して聖徒たちの流した血を忘れておられないということなのです。「賛美せよ」は「賛美し続けよ」という意味です。私たちが神のしもべであり、神を恐れる者たちであるなら、どんなときにも神の御名と栄光を賛美し続けていきたいと願います。 次に、ここで語られている、小羊の婚姻、つまり結婚について触れておきましょう。ここでの花婿はイエス・キリスト、花嫁は教会です。当時の結婚式について頭に入れておくとよいでしょう。ユダヤでは一日は夜から始まります。ですので結婚式も日没直後から始まります。その日の夜になると、まず花婿が彼の友人たちに付き添われて、花嫁の家に迎えに行きます。そして花嫁は花婿と一緒に婚礼衣装をまとって、また友人たちに付き添われて、今度は花婿の家へと向かいます。そこには招かれた多くの婚礼客が集まっており、約一週間にわたって披露宴が続けられるのです。 これを私たちに適用してみましょう。現在、私たち「教会」は、花婿イエスとの婚約はしましたが、まだ結婚式を迎えてはいません。当時、結婚する二人が結婚式まではお互いの顔も知らないということは珍しいことではありませんでした。私たちも、実際にイエス様にお会いしたわけではありません。しかし確かに愛しています。地上の教会の中にも、罪、つまずき、信仰からのドロップアウトのようなことが起こります。しかしそれでもなお神の約束にすがりつく者たちは、必ず花婿であるキリストが迎えに来られます。そして花嫁である教会は、地上のすべてのしみや傷を取り去られ、天へと引き上げられます。8節では、花嫁のまとう亜麻布のベールは、「聖徒たちの正しい行いである」と言われています。ここで「行い」と訳されている言葉は、複数形です。つまり、一つではなく、地上における、私たちすべてのクリスチャンの、信仰によるあらゆる営みを指しています。どんなに苦しい経験も、その中で信仰を働かせていくならば、純白の亜麻布の一部となり、終わりの日、私たちはそれをまとって花婿であるイエスの前に出て行くことができるのです。 これらの言葉を説き明かした御使いは、ヨハネに対して、「小羊の婚宴に招かれた者は幸いである」と語りました。しかし間違えないでいただきたいのは、私たちは招待者ではなく、花嫁本人であるということです。招待者が誰なのかはここでははっきりと語られていませんし、それ自体は重要ではありません。しかし大事なのは、私たちは、牧師や信徒の違い、信仰歴や奉仕の違いに関わらず、すべての聖徒が花嫁であるということです。それぞれの違いを有益に用いながら、私たちはやがて来たる婚宴の日まで、花婿であるイエス・キリストの素晴らしさを語り続けます。うまく伝えることができないことを己に責める必要はありません。ヨハネが御使いを礼拝しようとしたとき、御使いでさえこう言いました。10節をご覧ください。「私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです」。 「イエスの証し」、つまりイエス・キリストを贖い主であり救い主であり、来るべき美しき花婿であると告白する者たちは、どの時代においても、そして人間と御使いであっても、同じ神のしもべなのです。このような驚くべき恵みに入れられていることを心から感謝しながら、今年も、今月も、今週も、神を賛美し、証しの生活に励んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会
2024.1.7「私たちはキリストの花嫁」(黙示録19:1-10)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。