聖書箇所 『マルコの福音書』4章1-9,21-25節 1イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。非常に多くの群衆がみもとに集まったので、イエスは湖で、舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、湖の近くの陸地にいた。2イエスは、多くのことをたとえによって教えられた。その教えの中でこう言われた。3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。5また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、6日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。7また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。8また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」9そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」 21イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。22隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。23聞く耳があるなら、聞きなさい。」24また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。25持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」私が卒業した大学は新発田にありますが、当時、親しくさせていただいた先生の中に、アメリカで長いこと働いておられたクリスチャンの方がおられました。その先生の口癖は、「アメリカに比べたら日本は天国ですよ」でした。いま、日本の政治経済の没落を指して「失われた三十年」といった言い方をしますが、私が大学に入ったのはちょうどその三十年が始まった頃です。しかしその先生はこう言いました。日本は不景気とは言ってもアメリカに比べたら物価ははるかに安いし、犯罪も圧倒的に少ない、これはもう天国ですよ。とくに新発田の人は、夜も鍵をかけない。こんなのはアメリカではあり得ませんよ。あと、日本人は、相手の話を最後まで聞いてくれる。これはもう天国ですよ。アメリカ人は、人が話している最中、次に自分が何を言おうか考えているから、こっちの話なんかまるで聞いていない。その先生が日本を天国と呼ぶ理由は他に百個くらいありましたが、ほとんど忘れました。数年前に亡くなられて、今は本物の天国におられますが、やはり「これはもう天国ですよ」と言っているのかなあと思います。 今日の箇所は、有名なたとえ話がいくつか含まれていますが、その中でイエス様は何度も「聞く耳のあるものは聞きなさい」と繰り返しておられます。いま、時はアドベント、クリスマスの真の意味をお伝えするチャンスです。しかしクリスマスの真の意味を世の人々に伝えるためには、まず私たちがみことばにしっかりと聞かなければなりません。ちょうど先週、会堂建設の分かち合いの中で、それぞれの思いをひたすら「聞く」ということを心がけました。聞くというのは受け止めるということであり、最後まで受け止めてこそ、そこから改めて語ることばが生まれてくるということでしょう。今日、「聞く耳のあるものは聞きなさい」という問いかけをおぼえていきたいと思います。 さて、今日の聖書箇所はできれば省略せずに全部読みたいところでしたが、一部省略しています。しかしこの種まきのたとえについては、みなさん今まで何度も聞いているでしょう。省略したところはその解説部分ですので、一言でまとめるならば、私たちはみことばを聞くことによって救われます。しかし人間の生まれつき罪に汚れた心は、救われることを拒絶します。だからこの世の常識や、欲望、誘惑、あらゆるものを逃げ道、脇道にして、神のことばを最後まで聞こうとしないのです。 しかし神さまは、救われるべき者たちをあらかじめ選んでくださいました。彼らは最後までみことばを聞き、それを受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶように、神さまが定めてくださっています。その「彼ら」こそが、私たち、イエス様を救い主として信じた、クリスチャンたちのことです。みことばを真剣に聞く者は、必ず実を結びます。確かに人によっては三十倍、百倍といった違いはあるでしょう。しかし数の違いは決して問題ではありません。三十倍だろうが、百倍だろうが、神は確かに実を結ばせてくださるのです。 使徒パウロは、「信仰は聞くことから始まる」と語っています。神は私たちを用いて、家庭で、職場で、学校で、地域で人々にみことばを語らせてくださいます。それを通して、必ずそこには救いが起こされていくことを私たちは信じています。しかしその前に、まず私たち自身が、聞くことから始めなければなりません。神のことばを、「無理だ」「きれい事だ」と初めから耳を塞ぐことなく、ただ受け入れていくことが大事です。「聞く耳のある者は聞きなさい」というイエス様の言葉を、改めて私たちは心に刻みつける必要があります。何度も言いますが、聞くことは受け入れること、そしてみことばを受け入れるとき、神は確かに私たちを内側から変えて、実を結ぶ者としてくださいます。 さて、次に後半のたとえ話、明かりについて見てみましょう。イエスは言われました。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。聞く耳があるなら、聞きなさい。」 イエス様の時代、二千年前のユダヤにおける明かりというのは、粘土でできた皿にわずかな油を注ぎ、そこに芯を浸しただけの、ごく簡単なものでした。それは本当に弱々しい光であったことでしょう。しかしそのような小さな光が、燭台に置くことで、集まっている家族全員を照らし出しました。地に蒔かれた種同様、何十倍の光の束となり、人々の生活を彩ったのです。 イエス様は日常のものを用いて、多くのたとえ話を語られていますが、いつもそれは小さなものから始まります。貧弱な明かり、指でつかめないほど小さなからし種、目に見えないイースト菌、しかしどんな小さなものであっても、それが適切な場所に蒔かれたり、置かれたりすることで何十倍、何百倍となるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」。小さいと言うな。弱々しいと言うな。真剣に求める者の心に植え付けられたみことばは、その人の心の中で必ず豊かな実を結ぶのだ。そんなイエス様の励ましが聞こえてくる気がします。そしてみことばによって私たちが一歩踏み出すとき、一人ひとりはこの世の中でどんなに小さく、弱々しい光であっても、みことばから離れることなく、一歩また一歩と歩み続けるならば、やがては世界を照らすほどの大きな光となるのです。 二千年前、イエス・キリストがベツレヘムの家畜小屋に生まれた時、救い主が生まれたのだと理解していた人々は、ごくわずかでした。「今日、ダビデの町で救い主がお生まれになりました」と御使いに告げられた羊飼いたち、東の国から星を頼りに救い主を礼拝しにやって来た博士たち、あるいは処女でありながらイエスを生んだ母マリア、そして夢を通してこの子どもが聖霊によるものであることを教えられたヨセフ、クリスマスの意味を理解していた人たちはこれだけでした。ほとんどの人々は、そのとき何が起きていたのか、気づかなかったのです。 そしてそれから二千年経った今日も、世の人々はクリスマスの本当の意味に気づきません。気づくどころか、知ろうともしません。だからこそ、私たちはクリスマスに何が起こったのかを語っていかなければなりません。神ご自身が人となってこの地上に生まれてくださったのがクリスマス。それはやがて十字架であなたの罪を背負い、救いを与えるためだったのです、と。もし私たちが教会の中だけでクリスマスおめでとうと言っていたら、それはまさしく枡の下に明かりを置くようなものです。明かりは燭台の上に掲げなければなりません。燭台はどこにあるのでしょうか。あらゆるところにあります。私たちの家庭の中にあり、職場の中にあり、地域の中にあります。 ひとり一人は小さな者であり、弱々しい光であったとしても、もし私たちがみことばを真剣に聞き、そして語っていくなら、それは世界を揺るがすほどの大きな光となる、とイエス・キリストは約束しています。どうか一人ひとりが、みことばを心から受け入れましょう。イエス様の救いは、私たちを通して、この世界の隅々に広げられていくことをおぼえて、語り続けましょう。2017 新日本聖書刊行会