聖書箇所 『イザヤ書』8章19-9章7節 19人々があなたがたに「霊媒や、ささやき、うめく口寄せに尋ねよ」と言っても、民は自分の神に尋ねるべきではないのか。生きている者のために、死人に尋ねなければならないのか。20ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。21その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。 1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。2闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。3あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。4あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。5まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。6ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」。イエス・キリストの誕生を預言した言葉として、クリスマスの時期にはこのみことばから説教されることが多くあります。しかしこの言葉が語られる背景には、一体どれだけの霊的暗黒がイスラエルを覆っていたのか。じつに、神の民であるイスラエルがすがっていたのは霊媒師や口寄せといった、死者の霊を呼び出す人々でした。生きている人々があてにならないから、死者の霊に尋ねよう。これが神の民の現実、というところから今日の箇所は始まります。 8章の21節をご覧ください。「その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身をゆだねる」。「飢える」という言葉が二回も繰り返されています。これは食物の飢えではありません。たましいに飢えているのです。みことばに飢えているのです。人がもし死人の声にのみ希望を抱くような霊的暗黒の状態にとどまり続けるならば、どこを探してもそこには偽りの希望しかありません。クリスマスの時期には、一晩中ツリーのネオンが町に溢れます。しかし人がみことばによって、ほんものの光を受けないのであれば、どんなに夜を明るくしても、どんなに社会を良くしようと叫んでも、心の暗やみは決して晴れることがありません。 しかし、どんな暗やみが支配しているところも、神の御手が差し伸ばされないところはありません。9章1節をご覧ください。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」。 毎年クリスマスが近づくたびに、病院のベッドの上で点滴に繋がれながら迎えた若い日のクリスマスを思い出します。体を起こすこともできず、ただぼんやりと窓から空を見上げていました。空といっても、ベッドに横になっている私の視界には隣の病棟しか見えず、その蔭から太陽がわずかに見える程度でした。わきに座っていた母親が言いました。「来年の今頃には、きっと家でクリスマスを迎えられるよ」。でも私は返事をしませんでした。来年もきっと今と同じだろうと思いました。 人間は時間の中で生きる存在です。もっと言えば、時間の中でしか生きられない存在です。時間の中というのは、移りゆく世界ということです。だから、何日経っても、何ヶ月経っても、物事が進展していかなければ、それだけで失望してしまいます。しかし永遠の神は、時間を超越しておられます。神にとっては、暗やみも光も、一瞬で溶け去るものに過ぎません。この神の視点こそ、みことばが私たちに与えてくれる視点です。いま、光は見えなくても、すでに神は私に光を送ってくださっている。私たちはそれを目や時間で感じるのではなく、信仰によって信じるのです。使徒ペテロは手紙の中で、イザヤのことばを引用しながら、こう語っています。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。『人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ』とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです」。 この神のことばだけが、私たちに永遠への視点を与えてくれます。この神のことばは、私たちにはっきりと救い主の誕生を約束しています。9章の6節をご覧ください。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」 これはイエス・キリストを指すことばです。人としてお生まれになりながら、神としての性質を持っておられた方。神ご自身でありながら、神の子として謙遜と柔和に徹した方。力によって人を罪の奴隷から救ったのでなく、ご自分が犠牲になるという十字架を通して救われた、まさに平和の君と呼ばれるにふさわしい方でした。これを書いたイザヤは、イエス・キリストが生まれる七百年以上前に生きた人間でした。しかしにもかかわらず、彼はこの救い主を仰ぎながら、「今よりとこしえまで」と叫んでいます。実際のイザヤの前には、ゼブルンやナフタリ、ガリラヤといった町々がアッシリヤ帝国に蹂躙され、瓦礫の山と鳴っている姿が広がっていました。しかし信仰をもって現実を見つめていたイザヤには、救い主イエス・キリストが馬小屋に生まれ、十字架で勝利を宣言する光景は、何百年も後のことではなく、今目の前で、すでに始まっていることとして映っていたのです。 私たちにとって、ほんとうの希望は、みことばを信じる先にあります。地上の現実を見れば、それはどこまでいっても私たちを失望させるものでしかありません。ものごとがよくなりかけたと思ったら、すぐにまた悪化していく。そこには希望はありません。しかしただみことばを通して、永遠の神がすでに暗やみを打ち破り、光を与えてくださっているのだと信じるならば、そこにほんとうの希望が見えるのです。そして神が私たちに与えてくださった希望とは、このイエス・キリストが私たちのために生まれる、という永遠の約束にほかなりません。私たちはすでに希望を手にしています。それを心に刻みつけましょう。ひとり一人が、この暗やみの時代の中にあっても、イエス・キリストを見つめ続けていきましょう。2017 新日本聖書刊行会