聖書箇所 『ヨハネの福音書』8章1-11節 1イエスはオリーブ山に行かれた。2そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。3すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。5モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」6彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。7しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」8そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。9彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。10イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」11彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」ある中小企業に勤めていた男性が、職場のお金を横領したと同僚から訴えられ、警察に突き出されました。自分はやっていないと彼は主張したのですが、もともとその会社に入る前、彼はたいへん荒れた生活をして何度も警察沙汰を起こし、その会社の社長に拾ってもらってようやく立ち直ったように見えたという人でした。ですから社長以外の周りの人間も、警察も、この人がお金を盗んだと信じ込んでしまっていました。しかも取り調べにあたった刑事が、その男性の過去を知っている人で、十年以上も音信不通だった母親に連絡して警察に呼び出し、彼のあんたの教育が悪いから息子が今も罪を犯し続けるんだと説教したそうです。その刑事は、そのことを彼にも話し、親に申し訳ないと思うなら罪を認めろと迫りました。しかし彼の心に生まれたのは、自分ばかりか家族も巻き添えにして、何も感じない刑事への激しい憎しみでした。 罪という漢字は、四つに非と書きます。しかし漢字に詳しい方に聞くと、これは四でも非でもなく、四に見えるのは魚を捕る網、非は人間が真ん中から分裂している様子を表すそうです。つまり、見えない網に捕らえられ、人の心が真っ二つに割れている、それが罪。罪を犯す者は、罪とわからずに罪を犯します。この刑事も、罪を扱う職業でありながら、自分の罪がわかっていないように思います。しかし私にも彼らを責める資格はない。資格という意味では、誰も持っていない。罪を犯しながら、罪に気づかない。それがすべての人間の姿だと、聖書は私たちに語ります。姦淫の現場を捕らえられた女性、その姦淫の罪を鼻高々に訴える律法学者たち、あるいは無関係であるはずの群衆でさえ、すべての人々が罪とは無縁ではいられない姿がここには描かれています。それに対してイエス様は、ひたすら地面に何か文字を書いている、という不思議な聖書の物語です。 さて、それまで群衆にみことばを教えていたイエス様が、罪を犯した女性とそれを訴えるパリサイ人の前で、地面に文字を書き始めました。イエス様は地面に何の文字を書いていたのでしょうか。そこにいたすべての者が、首を伸ばしてイエス様の書かれた文字を見つめていたはずです。想像を働かせることもできますが、残念ながら、実際の所はわかりません。しかし間違いなく、それは旧約聖書の一部であったでしょう。そのみことばが何であれ、みことばと、この女性の罪を利用して、イエスを訴えようとする者たちへの怒りがそこにはにじんでいました。パリサイ人たちは、この女性を姦淫の罪で引きずってきました。しかし罪を犯したくなくても犯し続ける人への痛みはありません。彼らにとって、この女はイエスを訴えるためだけの道具にすぎません。彼女の心の中には何の興味も無い。そこにイエスは憤られたのです。人の罪を悲しむどころか、人の罪を利用してイエスを告発しようとする、彼らの心に対してです。 イエス・キリストが二千年前にこの世に来られたのは罪をさばくためではなく、罪人をあわれむためでした。否、あわれんで終わりではなく、自分を犠牲にして信じる者を罪から解放するために来られたのです。この姦淫の女は、この中で自分が罪人であると認めていた唯一の人でした。いけないと思いつつ、欲望に流されて姦淫を繰り返していたのでしょう。しかしパリサイ人たちは、罪を犯してしまう、人の心の弱さにつけ込むという、自らの罪に気づかなかった。人は神のことばを用いて、自分の正しさを誇り、人の罪をあげつらうようなことをしてしまうこともあるのです。だからこそイエス様は、地面に文字を書きました。どんなみことばを書かれていたのかはわかりません。しかしどんなみことばであれ、それが聖霊と共に働かれるとき、どのような罪人の心もえぐり出します。 そしてイエス様はおもむろに立ち上がり、有名な言葉を言われました。7節、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」。この言葉は、そこにいたすべての者に己の罪を突きつけました。この姦淫の罪で捕らえられた女性はもちろん、その罪をあわれむことなく、むしろ利用するために彼女を連れて来たパリサイ人たちに対しても。そしてそれまでイエスのことばを喜んで聞いてはいたが、自分が罪人であり救いを必要としていることには目を向けてこなかった群衆に対しても。 イエス様の言葉は、すべての人の心を例外なく突き刺す神のことばです。そこにいたすべての者たちは、一人、また一人と去っていきました。イエスと姦淫の女性だけがそこに残ると、主は彼女に優しく言われました。11節、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」。 しかし行きなさいと言われても、この女性に行くべき場所があるのでしょうか。姦淫の罪は、人間の性的欲望から生まれる罪です。こんなことはしたくないと思いながら、どうしてもその鎖から逃げられないのが罪の姿ですが、とくに姦淫の罪というのはそうです。彼女は行くあてもないままに、とぼとぼと歩き始めます。もし帰るべき家があっても、同じ罪を繰り返さないという保証はありません。むしろ、今まで何度も、もう罪から離れたいと思いながら、誘惑に負けて罪を犯し続ける、その繰り返しだったのではないでしょうか。「行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません」。しかし彼女は心の中でこう答えます。「無理です。私は罪を犯さずに生きていくことなどできやしないのです」。しかしそれでもなお、神は私たちにこう語りかけておられます。「これからは、決して罪を犯してはなりません」。 人間が、どんなに罪を繰り返すまいと誓っても、それは無力な誓いです。しかしだからこそ、私たちはイエス様の言葉によりたのみます。「これからは決して罪を犯してはなりません」。それは命令ではなく、約束です。私たちが自分の力ではなく、神のことばの力に頼るのであれば、「これからは決して罪を犯してはなりません」という言葉は現実になる、という、力強い約束です。神のことばが私たちを変える、いな、神のことばしか私たちを変えるすべはないということを信じましょう。この女性も、私たちひとり一人も、みな同じです。キリストを信じたとき、私たちの古い肉の性質は焼き尽くされ、新しい「今」を、これからを、まったく新しく生きる者として造り変えられていきます。決して私たちの生活は、クリスチャンになっても同じことの繰り返し、ではありません。キリストに出会った迫害者サウロは、使徒パウロに生まれ変わりました。彼はその手紙の中でこう書いています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。古い肉の性質は過ぎ去ります。しかし古い傷や経験は過ぎ去るのではなく、今日を生きるための、新しい命への糧となるのです。それを奇跡と呼ぶことなくして、何が奇跡でしょうか。そして私たちはその奇跡を日々経験しているのです。 最後に、ここから続く12節のイエス様の約束のみことばを紹介して、説教を終わります。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」。2017 新日本聖書刊行会