聖書箇所 『創世記』11章1-9節 1さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。2人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。3彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。4彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」5そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。6【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。7さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」8【主】が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。9それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで【主】が全地の話しことばを混乱させ、そこから【主】が人々を地の全面に散らされたからである。今日の午後、会堂建設について、建築士の方を交えての、何度目かの話し合いを持つことになっています。振り返ってみるとこの土地を取得したのがちょうど二年前のことでした。二年というと長く感じますが、実際は冬の間はあまり話し合いは進みません。去年の春から秋までは、みんなでキッチンや休息室についてあれこれ話し合いましたが、冬になると少しペースダウン、春になって雪が解けると建築事務所に依頼して図面を何度も書いてもらって、という感じで進めてきました。建築事務所の会長さんが最初に手がけた長岡の教会は、ペンギン教会という愛称だという話をしてくれました。形がペンギンに似ているだけでなく、会堂が完成するまでに何十年もかかったので、足の遅いペンギンにたとえたそうです。会長さんとメールでやりとりしたときに、豊栄はペンギンならぬオオヒシクイ教会かなという話をしました。オオヒシクイというのは福島潟のシンボルで、冬が近づくとロシアからやってきて春になるとまた帰って行きます。春から秋までは良いところまで話が進むけど冬になるとペースダウンしてしまう、うちの教会とかいうと怒られそうですが、オオヒシクイやら、蒸気船やら、シンボルになりそうなものが多くあるのは楽しいですね。駐車場の造成も含めて総予算五千万円程度という前提はありましたが、それ以外はほとんどが白紙、という中で始まったことを思い出します。話し合いを進める中で、だんだんと礼拝堂や、その他の施設のイメージが固まってくるのは、楽しい経験でした。できれば、話し合いにもっと多くの方が出席してくださればという思いはありますが、出席できない方も祈りと関心をもってくださっていることはわかります。私たちにささげることができる、最高の主の宮を求めていきたいと思います。 さて、そんな会堂の話し合いの日に、バベルの塔のメッセージというのはあてつけのように受け取られかねませんが、私たちは、誰でも入りやすいように基本、平屋の会堂を目指しているので、頂を天に届かせようという野望はありません。しかし、会堂建設というのは、人の願いが巧みに入り込んでくるものでもあります。その意味で、あえてバベルの塔の物語の中から反面教師とすべきところを学んでいくことも大切でしょう。 1節、「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」。高校生の頃、はじめてこの言葉を読んだとき、いいなあと思いました。世界が一つの言葉だったら、英語の授業も全然怖くないのに。しかしかつて人々が一つの言葉を持っていたという事実を、決して聖書は祝福として描いてはおりません。むしろ一つの言葉であったゆえに、ひとたび欲望に囚われた人々がまさに一つとなって、罪の坂道を転がり落ちていくさまを描いています。人々はシンアル、すなわち後のバビロン、今日のイラクのあたりですが、チグリス・ユーフラテスという大きな川に挟まれた豊かな土地を見つけ、定住を始めました。やがて彼らは、画期的な技術を手に入れます。石の代わりにれんが、漆喰の代わりに瀝青、すなわちアスファルト。この二大発明によって、それまでとは比べものにならない、高く、丈夫な建物を建てることができるようになりました。しかし人はそれによって、神への感謝を忘れ、人間の技術に頼るようになりました。それが頂点にまで達した姿が、4節です。「彼らは言った。『さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に全地に散らされるといけないから」。 このバベルの塔の出来事は、大洪水の出来事から続いています。つまり、あのノアとその息子たち、8人だけが箱船によって助かったという出来事です。箱船から下りたノアたちに神は命じました。「あなたがたは増えよ、地に満ちよ」と。神は、新しい地に降り立った人類が、全地に増え広がっていくことを願っておられたのです。しかしノアの息子たちから増えていった人類は、「われわれが地の全面に散らされるといけないから」と、神のみこころとは真逆の道を目指しました。我々人類は、我々を散らそうとする神に対抗する力を得た。そのシンボルであり、実際の砦となるのがこのバベルの塔だ。そのような高ぶりを持つに至った人々を見下ろしながら、神は言われました。6節、「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話し言葉を持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない」。 ここで「彼らがしようと企てることで不可能なことは何もない」という翻訳は注意が必要です。むしろ「彼らの企てを止めることはできない」と、今までの翻訳のようにシンプルに訳すべきでした。神は、人間にできないものは何もないと言っているのではなく、人間の欲望をとどめることは誰にもできないと語っておられるのです。人が集まり、一つの目的をもって何かを始めるということ、そのこと自体は決して罪ではないでしょう。しかし人の欲望は尽きることがありません。その欲望を満たすうえで妨げになるものは、内部の人間であろうと外部の人間であろうと、容赦なく攻撃し、切り捨てるようになります。ロシアとウクライナ、ハマスとイスラエル、そのような人々だけではありません。家庭で、学校で、会社で、地域で、そして教会でさえ、私たちは一つの欲望、あるいは目標と言い替えることもできる、そこに加わらない人を批判し、攻撃し、排除していくということさえあるのです。 しかし私たちは、神が与えてくださった真理を知っています。私たちが一つになるというのは、同じ目標を持っているから一つになるのではない。イエス・キリストというお方が私たちのために死んでくださったという一つの信仰ゆえに、私たちは一つになる、いや、すでに一つにされているのです。人間や組織に、どんなに崇高な目標があったとしても、それに従わない、従えない人に対しては、排除と切り捨てが生まれます。しかし私たちがキリストにあって一つとされているという信仰は、高ぶりではなく謙遜をもたらします。排除ではなく悔い改めをもたらします。切り捨てではなく、キリストをもたらします。最後はだじゃれですが。 もちろん、会堂建設というのも一つの目標です。しかしその目標が私たちを一つにするのではない。私たちがキリストにあって、すでに一つとされている、それを信じる信仰が大切です。バベルの塔を見るために下りてこられた神は、二千年前、ベツレヘムの家畜小屋にまで実際に人の姿で降りてきてくださいました。バベルにおいては人々の言葉を混乱させるために下りてこられましたが、今は混乱ではなく、和解と喜びを与えるために私たちの中に生きておられます。これがすべてです。会堂建設は私たちにとって恵みですが、それは、キリストが私たちのために命を捨ててくださったという信仰を一人ひとりが持っていることに勝るものではありません。ささげていない、協力しない、といったことでさばき合う世界ではなく、一人ひとりが救われたことを喜びながら、神様に最上のものをおささげする、ということを忘れないでいきたいと思います。私たちはすでにキリストにおいて一つとされています。このキリストから目を離すことなく、お互いを受け入れ合っていくことを忘れずに歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会