聖書箇所 『ヨハネの福音書』5章1-9節a 1その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。3その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。5そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。6イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」7病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」8イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」9すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。今日の聖書箇所は、38年間病気にかかっている人のいやしの物語ですが、ちょうど今から38年前、14歳の誕生日を迎えた直後に、私も大学病院で病気が見つかったときのことを思い出します。いまは医師が病気のことを説明しないで治療を始めるということはあり得ませんが、当時は、病人の気持ちを考えると本当のことを話さないほうがよい、という時代です。「ばい菌が骨に入った」と言われましたが、ずっと後になって知らされたのは、若年性骨肉腫という、やっかいな癌の一種でした。当時の主治医はもう亡くなっているのですが、その後を継いだ先生が言うには、じつは当時、私と同じ病気でその大学病院に入院してきた小児患者で、5年以上生き延びた人は誰もいなかったそうです。今はすでに完治と言いたいところですが、再発の危険も決してゼロではないということでした。でも本来は5年生きられなかったはずが、すでに50歳を超えるほどに人生を味わうことができましたので、何が起ころうとも、あらゆることは恵みと思っています。 3節をお読みします。「その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた」。なぜそんなにたくさんの人々がこの池の回りに集まっていたのか。それはときどきこの池の水面が大きく揺れることがあり、その時に最初に入った者はどんな病気でもいやされる、そういう噂があるからでした。人々は、文字通り、わらをもつかむ思いでこの池に運ばれてきました。そして、横になっていた、とあるように普段は死んだようにじっとしている。いつ来るかわからない、水が動く時をひたすら待つ。そしてときどき、何の前触れもなく、水面が揺れる。そのとき、病人、目の見えない人、足が動かない人、やせ衰えた人、そういった人々が一斉に恥も外聞もなく、声をあげながら、押し合いへし合い水面へ向かっていく。いやしの特権を受け取る者は唯一人だけ。恥も外聞もありません。前を行く者の足をつかみ、踏みつけ、自分だけはよくなりたい。そんな人々のエゴが現れる、ベテスダの池の水はいつも黒く濁って見えたことでしょう。 5節、「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた」。この人にとっての38年間は、目の前で人々が水へ入っていくのをただ眺めるしかできなかった38年間でした。しかし彼にとって無益な時間に見えても、それはイエス・キリストと出会うために必要な38年間だったのです。神は私たちを母の胎内にいるときから見つめておられます。いや、もっというならば、はるか昔にこの世界が造られる前から、私たちを救いへと定め、選んでおられたとパウロはエペソ教会にあてた手紙の中で記しています。私たちとイエス様との出会いに偶然はありません。この人も、定められた時に、定められた所で、イエスに出会い、救いへの招きをいただきました。それが病気になってから38年目、彼に与えられた恵みでした。 それにしてはイエス様の言葉はそっけないように見えるかもしれません。「良くなりたいか」。しかし天地の基が定められるよりも前から彼を選び、見つめ、探しておられた神であるイエス様が、どうしてそっけないことがあるでしょうか。「良くなりたいか」。それはそっけなさではなく、直球勝負です。余計な言葉を何一つ付け加えず、イエスはただまっすぐに、彼の心に向かってひとつのボールを投げ込みました。しかしバッターボックスに座り込んだこの人は、イエス様の直球勝負に対して、打ち返そうとしません。「良くなりたいか」にカキン、「よくなりたい!」と答えないのです。代わりにぐずぐずとこんなことを言い始めました。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます」。 38年間、目の前で他の人が池に入っていくのをただ見つめるだけだった彼は、いつのまにか、「良くなりたい」という率直な思いさえも口にできなくなっていました。38年間、病気と共に歩むなかで、彼の心の中に生まれ、心の中心を支配していたのは、他人との比較でした。他の人には助けてくれる人がいる。しかし自分にはいない。ですがこのいいわけじみた言葉の中に、小さなダイヤのようにきらめいている単語があります。それは「主よ」という第一声です。彼は目の前にいるイエスを、「主よ」と呼びました。自分に話しかけてきた者がだれかはわからない、しかしここで座り込んで生きるしかない私を超えている方と認めました。そして、私たちが勝利の人生を歩むのに必要なのはその一語なのです。たとえ八方ふさがりの人生であっても、自分では何もできないという焦りの中でも、ただ「主よ」とイエスに答えるなら、ただイエスの憐れみにすがるなら、私たちのうえに、イエスの力強いみわざが現れるのです。 8節をご覧下さい。「イエスは彼に言われた。『起きて床を取り上げ、歩きなさい』」。この単純なことばだけで、神はこの人の人生を変わました。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」。38年間、伏せっていた人が、ひとつの言葉だけで、一瞬のうちに床をあげることができるようになる。私たちには信じられないことです。しかしこれは事実です。神の言葉は本当に単純です。シンプルです。だけど確実に人を変えます。 ナポレオンの有名な言葉に、「我が輩の辞書に不可能という文字はない」というものがあります。しかし実際のナポレオンの言葉は、「不可能の一字は、ただ愚人の辞書にのみあり」というものでした。不可能という言葉は、愚かな人が発する言葉である、という意味です。「もうだめだ」「そんなの無理だ」と私たちは言いたがるものですが、それは愚かな人の常套句である。私たちにはできないことでも、神にはできる。そして神は、愛する者に常に目を注ぎ、そして不可能を可能にさせてくださる。パウロはピリピの教会へこう書き送っています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」。また彼はローマの教会にはこうも書いています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。 たとえ私たちを取り巻いている現実が絶望的なものであったとしても、「主よ」と呼びかけることができる幸い。それが、この38年間、病に苦しんでいた人にも与えられていました。時として、私たちは神のことばに正面から答えることができず、言い訳をしてしまうときもあります。それでも、「主よ」と一言答えるならば、主は私たちを立ち上がらせてくださいます。一人ひとりが恵みをかみしめて、歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会