聖書箇所 『創世記』19章1-8、30~38節 1その二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ。2そして言った。「ご主人がた。どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、私たちは広場に泊まろう。」3しかし、ロトがしきりに勧めたので、彼らは彼のところに立ち寄り、家の中に入った。ロトは種なしパンを焼き、彼らのためにごちそうを作った。こうして彼らは食事をした。4彼らが床につかないうちに、その町の男たち、ソドムの男たちが若い者から年寄りまで、その家を取り囲んだ。すべての人が町の隅々からやって来た。5そして、ロトに向かって叫んだ。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」6ロトは戸口にいる彼らのところへ出て行き、自分の背後の戸を閉めた。7そして言った。「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。8お願いですから。私には、まだ男を知らない娘が二人います。娘たちをあなたがたのところに連れて来ますから、好きなようにしてください。けれども、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは、私の屋根の下に身を寄せたのですから。」 30ロトはツォアルから上って、二人の娘と一緒に、山の上に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼と二人の娘は洞穴の中に住んだ。31姉は妹に言った。「父は年をとっています。この地には、私たちのところに、世のしきたりにしたがって来てくれる男の人などいません。32さあ、父にお酒を飲ませ、一緒に寝て、父によって子孫を残しましょう。」33その夜、娘たちは父親に酒を飲ませ、姉が入って行き、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。34その翌日、姉は妹に言った。「ご覧なさい。私は昨夜、父と寝ました。今夜も父にお酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、一緒に寝なさい。そうして、私たちは父によって子孫を残しましょう。」35その夜も、娘たちは父親に酒を飲ませ、妹が行って、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。36こうして、ロトの二人の娘は父親によって身ごもった。37姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。38妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアンモン人の先祖である。「家族を顧みない信仰者」。自分でつけておきながら、ドキッとするタイトルです。誤解を防ぐために念のために言いますが、信仰者はみな家族を顧みない者だという意味ではありません。神を愛する、まことの信仰は、自分を大切にするように隣人を愛します。そして最も基本的な隣人関係は、家族関係です。私たちが家族を大切にするとき、信仰はまさに目に見える形をもって現されていくものです。その反面教師、アンバランスな信仰者、それがロトでした。 現代の日本社会は、「一億総孤独時代」と言ってもよいでしょう。家族をはじめとして、人間関係が至るところで壊れており、そのために人々は交わりを必要としています。神は、その仲介者として私たちを救いだしてくださいました。今日の招きの言葉および暗唱聖句では、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」を選びました。それは、信じれば自動的に家族も救われるという意味ではありません。信じた者は、聖霊が常に心の内側を照らし続けてくださることを通して、家族との関係が少しずつ変わっていきます。そして時間はかかるかもしれませんが、やがて家族もキリストの光に照らされ、そこに家庭が回復するという恵みの約束です。 1節をご覧ください。「その二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ」。御使い、つまり天使ですが、おそらく羽根を生やして光輝く姿でソドムに舞い降りたわけではないでしょう。二人の御使いは、一見、ただの旅人のように見える姿で、ここに正しい者たちが十人いるかどうかを見極めにやってきました。 しかし、ここで注目したいのは、ロトの振る舞いです。彼はまるで神を礼拝するかのごとく、顔を地につけて伏し拝みながら、この旅人たちに近づいています。ロトが、彼らが御使いであることにはじめから気づいていたのか、それとも旅人に対してまるで神に接するようにもてなすことが彼の流儀であったのかわかりません。しかしはっきりしているのは、彼はここだけ見れば、まさに信仰者と呼ぶにふさわしい、霊的な目を持ち、整えられた品格を併せ持っていたということです。しかしふたりの御使いは、ロトの歓迎にこう答えました。「いや、私たちは広場に泊まろう」。そのわけは、もう少し後で明らかになりますが、それでもロトはしきりに勧めたので、御使いたちは彼の招きに応じました。そしてロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼きました。 しかし一見、信仰者として申し分の無いようなロトの家に、明らかに欠けているものがあります。それは、家族の匂いです。ロトはごちそうを作りました。ロトはパンを焼きました。ロト個人は、神の前にかいがいしく動き回り、もてなしています。しかしまるで家族の気配が感じられません。神に向き合うように旅人をもてなす心を持っているのに、家族に向き合おうとする心がありません。ごちそうの香りはしても家族の気配がしません。暖かな湯気は立ち上っても、家族の笑い声は聞こえません。 私たちは次のことに驚愕します。ロトの言葉の中で、はじめて家族が出てくるのは8節であることを。ソドムの全住民が、旅人を性的にもてあそぶためにロトの家を取り囲んだとき、あろうことか、彼は自分の娘たちを好きなようにしていいから、この旅人に手を出すことはやめてくれ、と言い出すのです。じつに、これがロトにとっての家族の存在でした。御使いたちが最初にロトに誘われたとき、「いや、私たちは広場に泊まろう」と断った理由が、ここで想像できます。家族を犠牲にするロトの家には、たとえごちそうを並べられたとしても御使いも泊まりたくなかったのです。 ロトの妻が塩の柱になったことは有名な話ですが、ロトが二人の娘を犠牲として差し出す場でも、妻であり母である彼女は出てきません。ロトが神に熱心であったことは認めるべきでしょう。しかし彼は明らかに家庭を育むことに失敗していました。その原因はどこにあったのでしょうか。聖書は、ロトの家庭がなぜここまで薄っぺらいのか、その原因についてははっきりと記してはいません。しかし事実としてのみ、ロトの家庭のアンバランスさを告発しています。ロトの信仰は、家族みんなで神をほめたたえる家庭を作り出せませんでした。不愉快なことかもしれませんが、クリスチャンの家庭の中にも、そのような姿を見いだすことがあります。本人は、熱心に教会生活を送っているのですが、それが家族を幸せにはしていない姿を見るのです。信仰を持つとはそういうことなんだと割り切ることはできません。日曜日は朝から夕方まで礼拝、会議、奉仕に取り囲まれて、家族と一緒に過ごしたくても過ごせない、そういう見方もできるでしょう。しかし問われているのは、日曜日には教会づくしで、平日はどうだ、土曜日はどうだ、というような時間的なことではなく、もっと基本的なことのように思います。私たち自身が、家族をどのように見ているのか。どのような家庭を作りたいと願い、祈っているのかということです。 私の知人が牧師をしている教会に一人の婦人信徒がおりました。当時60代くらいでしたが、今は結婚して県外に嫁いでおられる娘さんが小さいときから教会学校の教師をしておりましたので、教師歴は30年以上というベテランでした。しかし彼女がある時期から「教師をやめたい」と牧師に相談をするようになりました。熱心に教えているつもりだが、子どもたちの心に響いていないことが自分でもよくわかる。しかし牧師は、貴重な奉仕者なので、そこを何とか続けてほしい、僕もサポートするから、と言って引き留めていました。 そんなある日、娘さんが帰省して、教会学校に出席しました。その娘さんはかつては教会学校や礼拝に出席していましたが、思春期に入って教会に行かなくなり、そのまま、という方でした。その娘さんが家に帰った後、こう言ったそうです。「お母さんは、私の育て直しをしている」。「え、どういうこと?」「私がクリスチャンにならなかったから、この子どもたちはそれを繰り返さないように私が教えなければ、という悲壮感しか伝わってこなかった。それは子どもたちもかわいそうだし、私もつらい」。娘のこの言葉で、彼女の心は完全に折れてしまいました。牧師のところにかけこみ、もうできない、やめさせてほしい。そのあまりの剣幕に、牧師も「わかりました」と言うしかありませんでした。 しかしこの話には、まだ続きがあります。わが子に信仰継承できなかったやり残し感を、教会学校の子どもたちに向けていたということを、やがてその姉妹が素直な心で受け入れることができる日が来ました。そのとき、かえって、心から重荷がとれたそうです。娘さんが結婚してから、信仰のことや、昔のことについて話すことを避けていた彼女は、その後、娘さんと自然な雰囲気の中で色々と話すことができるようになりました。そして県外にいる娘さんの方も、地元の教会へ通うようになったそうです。 神の恵みは、どれだけ時間がかかったとしても、家族を自由にし、お互いが喜び合うことのできる関係へと変えていきます。神はロトをあわれみ、彼らを救い出しました。近親相姦まで犯して子孫を残そうとしたロトの娘たちの姿は悲しみでしたが、数百年後、その子孫のモアブ人から、ルツという女性が生まれ、そのルツからダビデ王、そしてイエス・キリストに繋がる人々が起こされていきます。信仰者ロトでさえ家庭を築くことに失敗したとしても、それでも神のあわれみは尽きることがありません。ただ主にすがり、信頼しましょう。2017 新日本聖書刊行会