聖書箇所 Ⅱコリント1章15~24節 15この確信をもって、私はまずあなたがたのところを訪れて、あなたがたが恵みを二度得られるようにと計画しました。16すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニアに赴き、そしてマケドニアから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。17このように願った私は軽率だったのでしょうか。それとも、私が計画することは人間的な計画であって、そのため私には、「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。18神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。19私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。20神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。21私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。22神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。23私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。24私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。本日も、コリント人への第二の手紙からみことばをいただきたいと思いますが、残念ながら、何を言っているのかわからない、とため息をもらしたくなる箇所です。所々、神の子キリスト、保証である御霊、といったことも出てきますが、はいはい、いいえいいえ、はいと同時にいいえとか、わかりにくいことこのうえありません。 この第二の手紙が、教会の礼拝で連続説教されることが少ないのは、この手紙を理解するためには、そこに書いていない背景についても説明しなければならないからだと思います。じゃあなんでうちの牧師はわざわざ難しいところを取り上げているのと聞かれたら、ここにはまさに、神の教会が内側から揺れ動く姿と、必ず回復していく恵みに溢れているからです。私たちはいま、教会の会堂建設という大きな働きの正念場に来ています。会堂建設はお金集めが最大重要点ではなく、一人ひとりの確信をいかに作り上げていくかがポイントです。私たちは確信のないものに力を注ぐことはできませんが、確信が与えられれば、どのようなものでも献げることができます。しかしその確信に至るまでは、それぞれが異なる思いを丁寧にすりあわせながら進めていかなければなりません。意外とクリスチャンはこれが苦手です。自分に示されたものこそみこころなのだ、と考えやすいからです。しかしすりあわせる労力を避けるあまり、なおざりにしていると、後になってから、これは私が求めていたものとは違う、と問題が再燃することもある。何やら不安なことばかり語っていますが、これは信仰を働かせなかった場合の話です。しかし信仰を働かせていくとき、会堂建設は、会堂以上に、私たち自身をイエスに似た者へとさらに近づけさせていく、恵みをもたらします。むろんその途中、私たちはたくさんの誤解や、すれ違いに対して、丁寧に取り組んでいかなければなりません。 話が少し横道にそれましたが、今日の聖書箇所の背景にあるのも、コリント教会の中にまだくすぶっていた、パウロへの反感でした。コリントの信徒を利用して私腹を肥やしていた偽教師たちは、パウロがコリント教会を訪問すると言っていながらまだ来ないのは、パウロがいい加減な人間だからだ、と批判していました。そんないい加減な人間が語る福音や救いが本物であるという保証はどこにあるのか?と、彼ら偽教師はパウロの人格性だけではなく、その教えまでも批判・否定していたのです。しかも彼らは、自分たちの言葉をもっともらしいものにするために、イエス様の語られた言葉さえ利用していました。この箇所で繰り返されている「はい」「いいえ」は、イエス様が語られたことばの一節です。マタイ福音書にある山上の説教の中で、主はこう語られました。「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」 偽教師は、このみことばを持ち出して、パウロを批判しました。ことばと行動が一致しないパウロは、イエスが警告した「悪い者」そのものなのだ。だからパウロが今まで語ってきたことも、口先だけの約束にすぎない。そして彼らは今までパウロが伝えてきた永遠のいのちや、聖霊による保証についても疑わせ、教会を再び混乱させていたのです。 悪魔が教会をかき回すときは、必ずみことばを使ってきます。悪魔にとってみことばは触れたら溶けるというものではなく、むしろみことばを自分の言いように使って、信者を惑わしてきます。荒野の誘惑のときも、エデンの園での誘惑のときも、悪魔は神のことばを持ち出してきました。コリント教会においても、偽教師たちはみことばを使って、教会をかき回していました。それに対してパウロはどのように答えているでしょうか。 15節と16節で、パウロは、教会の訪問を取りやめた理由は思いつきではなく、別の機会を設けて、コリント教会に何重もの恵みをもたらすためであると語っています。しかし具体的な反論はここまでです。その後、彼はひたすら言葉を尽くして、イエス・キリストが「はい」と同時に「いいえ」である方ではなく、この方には「はい」だけがある、私たちに聖霊の油を注ぎ、救われた保証としてあなたがたにも聖霊を与えられたお方、といったことについて語っていきます。パウロにはわかっていました。悪魔が偽教師を通して、みことばを利用して自分たちが神のしもべであることを疑わせようと仕向けているのであれば、彼にできること、それはコリント教会の信徒たちが、正しいみことばにとどまるように、自分のことよりも神のことを語るべきだ、ということを。 パウロは、多くの言葉を費やして、自分たちの計画の正当性を弁解することもできました。しかしたとえ誤解は残しても、自分のことを語るよりも、彼は人々がみことばを正しく解釈し、与えられたみことばの中に信頼し続けることを願ったのです。私たちが何かを伝えたり、あるいは伝えなかったことで、他人から誤解を受けることは珍しくありません。しかし教会においては、自分の語ったことや行動については、人がそれをどう考えるか、ということの前に、自分が神様に対する真実さをもってそれを語り、行ったのか、ということが重要です。それがあやふやであれば、神に悔い改め、人に謝罪します。しかし神への誠実を確信できるのであれば、仮に誤解や問題が起こっても、真実なる主にゆだねることができます。パウロとコリント教会のように、問題解決まで何年もかかるかもしれません。しかしすべてのことが神から発しているという確信に立つとき、トラブルの日々の中で最も重要なのは、早期解決よりも、そこから何を信仰の訓練として引き出すかということです。 約二十年前に豊栄に赴任してきたとき、会堂がとても広かったのを覚えています。スピーカーやミキサー、録音装置のようなオーディオ関係がまったくなかったからでした。声が大きいから音響いらないよねという声もありましたが、いつも声を張り上げていると説教者も会衆も疲れてしまいます。インターネットで調べて、スピーカーやオーディオなどについて勉強しました。スピーカー一本にしても、ミドルクラスで数万円、高級品では数十万円もします。到底買えませんが、どんなに高いスピーカーも、いやむしろ高級品だからこそ、すぐには使い物にならないそうです。高音、低音、あらゆる音域を何十時間、何百時間と鳴らし続けて、ようやく本物の音が出るようになります。これを「加齢」を意味する言葉と同じ、エイジングと言います。しっかりと時間をかけてエイジングをしたスピーカーは、何十年も同じ音を鳴らし続けることができます。それは本物になるまで時間をかけたからです。 神が私たちを訓練するときも、時間をかけます。問題に投げ込み、長い時間をかけてその意味を見いだし、益に変えます。問題が起きたとき、それを直ちに解決することに心が向いてしまい、神がこの問題をどのような計画で私に与えられたのか、忘れてしまいがちです。パウロにとって、数年間のコリント教会との軋轢は、自分が育てた教会との間に起きた、悲しい経験でした。しかしパウロは、人からいくら誤解されても、動じませんでした。それは、自分が神のみこころに従って歩んでいると確信していたからです。私たちは、何を行うにしても、「これに関して、神のことばはどう語っているか」ということをまず第一に考えるようにする訓練が必要です。それは、日々みことばを読み続けることを通して内側に作り上げられていくことを心に刻みつけながら、歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会