聖書箇所 Ⅱコリント1章8~14節 8兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。9実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。10神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。11あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。12私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。13私たちは、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。あなたがたは、私たちについてすでにある程度理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。教会の牧会と並行して、刑務所で教誨師として奉仕している、ある牧師が次のような文章を書いていました。「教誨師というのは、刑務所に入っている人たちの相談に乗るのが仕事だが、時には直接、福音を伝えることもある。そして決して多くはないが、その中でイエス・キリストを信じて悔い改めた人たちもいた。しかしクリスチャンとなっても、完全に社会復帰を果たすことは難しい。また同じ罪を犯して、別の刑務所に入所しているという話を聞くことも多い。そのたびに私の心は、裏切られたような思いに襲われる。教誨師として働くことに意味があるのかと、何度も心の中で繰り返す。同じ罪を繰り返してしまう、弱い人間だからこそ、私の手を離してはいけないのだ、と思っても、心は晴れない。私は二十年以上、そんな葛藤を繰り返しながら、この奉仕を続けている」。 教誨師という仕事は、同じ牧師という職業である私でも、謎の多い奉仕です。しかしこの先生の文章を読んで、二十年以上のベテランであっても、決して慣れるということがない奉仕なのだろうということを思いました。それは、他の多くの仕事にも言えることかもしれませんが、人間が相手であるからだろうと思うのです。機械の操作や、何か製品を作るとき、ある手順に従えば、同じものができます。しかし人間はそうではありません。牧師の仕事で言えば、同じ説教を聞いているのに、ある人は心が砕かれ、ある人は心をかたくなにするということがあります。牧師を含めて、人間、とくにその心やたましいを扱う仕事においては、こうすれば必ず同じ反応がある、ということはありません。人の心は、それほどまでに繊細であり、だからこそ神が作られたかけがえのないものなのだということを痛感します。 そんな中で、私たちはパウロが語っている、「生きる望みさえ失うほどの、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫」とは何を指しているのかと考えます。それはまるで「死刑の宣告を受けたかのような思いであった」とも述べられています。パウロは、この苦しみについて、コリント教会の人々に「あなたがたに知らずにいてほしくはない」と言っているのですが、それが具体的に何を指しているのかは、一切触れていません。ユダヤ人からの迫害なのか、難破や遭難の類いなのか、あるいは死さえ覚悟するほどの病にかかったことなのかは、謎に包まれています。しかし、想像するに、やはりパウロほどの人が死をも覚悟するほど、そしてコリント教会の人々に伝えずにはいられない、というほどの苦しみは、遭難や病気といった単純なものではなく、人々との関わりの中で生まれてくるものであったのだろう、と思います。そして、一つだけ明らかなことは、たとえその苦しみが何であろうとも、この苦しみを通して、パウロの中には、本当の意味で神により頼む者になった、という神への感謝と賛美が生まれたということです。9節にはこう書かれています。「それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです」。 パウロが経験した、激しい苦しみは、人々の関わりの中で生まれたものではあっても、それはじつはパウロが神だけに頼るように、神から発しているものでした。苦しみは一つとして無駄に終わるものはなく、自分が無力なひとりのしもべにすぎないことを悟らせ、そして無力だからこそ神にすべての希望を置く信仰へと至らせます。 旧約聖書の中にヤベツという人が出てきます。彼の母親は、「私がたいへんな生みの苦しみを味わったから」と言って、「苦しみを作り出す者」という意味の、ヤベツという名前をつけました。「苦しみ」だけならまだしも、「苦しみを作るもの」なんて、何を考えて自分の息子にこんな名前をつけたんだ、と言いたくもなります。しかし聖書は、自分の母親からトラブルメーカーと呼ばれたヤベツが、やがて変えられていく姿について記しています。彼はこう祈るのです。「どうか私を祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私と共にあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」。これは、単に、苦しみを避け、祝福を求めている祈りではありません。苦しみをつくる者と名付けられた彼が、苦しむことのないようにしてくださいと祈りつつ、しかし彼をその祈りに導いたのは、まぎれもなく、彼が苦しみ続けた経験そのものであったということが短い言葉の中に表されているのです。 苦しみは、私たちから何かを奪うためではなく、何かを気づかせるために、神が与えてくださるものです。そしてパウロの場合は、苦しみを通して改めて気づかされたのは、祈りの力であったと告白しています。11節にはこのようにあります。「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。」 中途半端な苦しみは、私たちを他人に依存させる、麻薬のようなものです。しかし神のみこころにかなった苦しみは、他人に頼ることさえできぬほどに人を打ちのめします。しかしそのとき、人は神に行く以外に、ほかに行くところがなくなります。ひざまずいて祈るしかできなくなります。そして苦しみを通して、祈りにしか頼れなかったパウロは、いま、かつて彼に反抗していたコリント教会の人々に対してさえ、祈ってくださいと言えるようになりました。祈りは、人間的な考え方の違いを超えて、私たちを一つとするのです。一致がなければ祈れないという声を聞いたことがありますが、むしろ真実は逆です。祈るときに一致が生まれるのです。 ある夫婦が、新築住宅を建てることになりました。家を建てる場所が、人通りの多い道路に面していたので、ハウスメーカーの担当者が、外からはできるだけ家の中が見えないようにしましょう、と提案しました。しかしその夫婦はこう言ったそうです。「いえ、できるだけ、どの部屋も外から見えるようにしてください。私たちがいつも祈っている姿を、できるだけ多くの人に見てもらいたいのです」。これは、祈るときには奥まった部屋で誰にも見られないように祈りなさいと言われたイエス様の言葉に反するものではありません。イエス様は、人前でわざと祈り、信仰的と思われたいという人間のエゴを戒められました。しかしこの夫婦は、自分たちが信仰的だというのではなく、祈りには力があるということ、祈りは家族を結びつける霊的な帯なのだということを、家の前を通る人たちに伝えたかった。このような夫婦の姿は、神も喜びとされることでしょう。私たちがだれかに祈ってくださいと求めたり、祈りの課題はありませんか、と誰かに聞くとき、そこにはあらゆる人間的なわだかまりを超えて、祈りの内に一つとなることができる幸いを味わうことができます。 人は、言葉や行動を誤解しやすいものです。コリント教会の人々も、かつてはパウロに対してそうでした。そしてその結果、パウロも、コリント教会も、数年のあいだ、苦しみました。しかしそれでもなお、やがて主が来られる、終わりの日には、すべてが明らかにされ、あらゆる傷も誤解も、再臨の主の御前で溶けていく。そのとき、私が誇りにするのは、コリント教会の人々よ、あなたがたなのだ、とパウロは語りました。だからあなたがたも、私たちを誇りとしてください、と。パウロがコリント教会を誇りとしたように、神は私たちの教会、そしてひとり一人をも誇りとしてくださっています。イエス様は、私たちを喜ばれているからこそ、いのちを私たちに与えてくださいました。その恵みをかみしめながら、歩んでいきたいと思います。2017 新日本聖書刊行会