聖書箇所 ヨハネ6章52~60節 52それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。53イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。57生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。60これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」今から半世紀以上前、ちょうど豊栄教会が始まったのと同じ一九七二年のことですが、「アンデスの聖餐」と呼ばれる事件がありました。アンデスとは、日本の反対側にある南アメリカ大陸にある、富士山よりもはるかに高い山々が連なる、アンデス山脈のことです。この年の10月13日、乗客・乗務員あわせて45人を載せた飛行機が、このアンデス山脈に墜落したのです。45人のうち、29名が即死を免れて、身を寄せ合いながら救助が来るのを待ちました。しかし数日後、電池の切れかけたラジオから流れてきたのは、乗客たちの生存は絶望的なので、捜索は行わない、事故現場は春になったら調査する、という警察の発表でした。標高四千メートルを超えるアンデス山脈には食べるものも飲み水もありません。生き残った29名の者たちは、一人、また一人と、栄養失調で命を落としていきました。しかし彼らは座して死を待つということは選ばなかったのです。リーダー格二人が、何と六千メートルを超えるアンデス山脈を自力で走破し、運良く羊飼いのグループと出会い、全員が助け出されました。墜落から二か月が経っていましたが、なんと29名中、16名もの人々が生き残っていたのです。マスコミはこぞってこの16名を英雄として扱いし、この出来事を「アンデスの奇跡」と呼びました。しかし冬のアンデス山脈で、二か月以上のあいだ、16名もの人々がどうして生き延びることができたかがだんだん明らかになると、「アンデスの奇跡」は皮肉をこめて「アンデスの聖餐」と呼ばれるようになります。なぜでしょうか。彼ら16名は、事故で亡くなり雪の中で凍っていた人々の死体の肉を食べて、生き延びていたのです。 「アンデスの聖餐」は、言うまでもなく、今日の聖書箇所の中で、イエスが言われた、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」ということばを、当時のマスコミが悪意を含みつつ、もじったものでした。現代においても、人の肉を食べ、血を飲むということは、生き延びるためとはいえ、身の毛もよだつものと思われることでしょう。ましてや、二千年前のイスラエルにおいてはなおさらです。最後の60節を見ると、この言葉を聞いた、多くの弟子たちが失望し、イエスのもとを去っていったと記してあります。イスラエル人は、旧約時代から、血のついた生肉を食べることは罪として教えられてきました。わたしの肉を食べよ、わたしの血を飲め、そうしなければあなたがたにいのちはない、それは到底受け入れられない教えであったことは想像にかたくありません。なぜイエスは、ここまで大胆に語られたのでしょうか。誤解を招く、というレベルを越えています。しかし語りました。語らなければならなかったのです。なぜか。救いというのは、人々が考えている以上に、はるかに大きな犠牲を伴って与えられるものであるということをイエスは語らなければなりませんでした。ユダヤ人たちは、動物のいけにえをささげることで罪が赦されると考えていました。異邦人は、善い行いを繰り返していけば、それが言葉の通り「罪滅ぼし」になると考えていました。しかしそんなことはあり得ないのだ、ということをイエスは言おうとされました。私たちすべての人間が抱えている罪を取り除く方法はただ一つ。「人の子の肉を食べ、その血を飲む」、それ以外にはない。あらゆる人間が嫌悪感を抱かずにはいられない、そのような言葉を用いてでも、私たちは救われなければならないのだ、ということをイエスは教えようとされたのです。 今日の聖書箇所をギリシャ語の原語で読むと、二種類の「食べる」という言葉が使い分けられています。新約聖書では通常、「食べる」という言葉はエスティオーという単語が使われます。これは新約聖書に約160回も出てくる言葉です。ところが、今日の箇所では、同じ「食べる」でも「トローゴー」という言葉が専ら使われています。このトローゴーは新約聖書の中に6回しか出てこない言葉ですが、そのうち4回がこの箇所で使われています。では同じ「食べる」でも「トローゴー」はどういう意味なのか。「むしゃむしゃ食べる」という意味です。決してきれいな食べ方ではない。「食べる」というよりは「むさぼる」とか「食らう」というニュアンスに近い。この聖書箇所で6回中4回出てくると言いましたが、残りの2回はいずれも罪人が食事をするという悪い意味で使われています。ですからここでのイエス様のことばは、「わたしの肉を喰らえ。わたしの血をすすれ。そうしなければいのちはない」と、訳したほうがよいでしょう。決してお上品な食事ではないのです。テーブルマナーを守らなければならない、きれいな食事ではなく、ゴクゴク、バリバリ、ムシャムシャ、そばの人が顔をしかめるような、そんな音が聞こえてきそうな食べ方です。しかしもしイエスを食べることが、罪からの救いであるとすれば、それは決して静かで上品な食事の席ではないでしょう。私たちは罪から救われるために、恥も外聞も気にしてはならないのです。自分のプライドを気にして生きていくならば、十字架は遠くから眺めるもので終わってしまいます。しかしイエスは十字架で私たちに呼びかけておられます。わたしに近づけ。わたしの肉を食らえ。わたしの血をすすれ。それがこの世の常識から見て、どれだけ標準からかけ離れたものであっても、わたしを食べること以外には、あなたがたは決して救われないのだ、と。救いとは、常識が入り込む隙がないほどの、重いものなのです。 説教の最初で紹介した、「アンデスの聖餐」の事件から20年後、これをもとにしたドキュメンタリー映画がアメリカで作られました。原題は「alive」、これは生きている」という意味ですが、日本での公開では「生きてこそ」というタイトルになりました。生き延びるために、仲間の死体を食らったことに対しては、何十年経っても批判がやむことはありません。しかし「生きてこそ」というタイトルには、外部の批判者たちを沈黙させる、言葉の力があるように思います。この世界は、数え切れない人間のいのちを犠牲にして、ようやく成り立っている世界です。しかしその事実にさえ気づいていない、あるいは認めようとしない、というのがそもそも私たちの罪であり、そこから救い出そうと、イエスはご自分のいのちを私たちのために差し出されました。この方を喰らう以外に、私たちが救われる道はありません。救いとは、多くの想像するようなスマートな道ではなく、むしろそのように、すさまじく無様で、それゆえにすさまじく尊いものです。私たちのためにご自分のすべてを与えてくださったイエス・キリスト。私たちは、聖餐の場で与えられたパンとぶどう酒をかみしめ、味わいながら、この方とともに、生きていくことをおぼえていきましょう。2017 新日本聖書刊行会