聖書箇所 第一コリント11章17~29節 17ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。18まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。19実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。20しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。21というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。22あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。 23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。27したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。ある日本人観光客が、フランスへ旅行に行った時の話です。歴史の古い教会があり観光客もOKということで入ってみました。ところが入ったはいいが、たいへん困ったことになりました。運悪くお昼に食べたエスカルゴにあたったらしい。トイレを探しましたが、どこにもトイレがないのです。フランス語はできないので片言の英語で「フェア・イズ・トイレット?」と聞くと、「ノン、ノン」と言われて、急いで教会を飛び出しました。他の所でトイレを見つけて事なきを得たのですが、「教会なのにトイレがないなんて!」と怒り収まらず、ホテルに戻ってから通訳にこの話をすると、彼女も怪訝な顔をしてこう言ってきたそうです。「教会は神の家ですから、トイレがなくて当たり前です」 ただ私たちからすると、トイレがない教会というのはちょっとあり得ないですね。トイレだけではない、台所も必要、洗面所も必要、いわゆる水回りと言われるもので、教会になくてもよいのは浴室くらいでしょう。もっとも外で作業をする信徒のために、シャワールームを備えている教会もあります。神の家なのに、なぜこれだけの附帯設備を考えなければならないかというと、教会は神の家であると同時に、人が集まるところであるからです。礼拝のために集まるだけでなく、一緒に食事をし、一緒に作業をし、一緒に時間を過ごす。そういうものであるがゆえに、礼拝堂だけあればよい、ということではありません。だからこそ、教会を設計するというのはとてつもなく大変なことだと思います。聖なる部分と、俗なる部分のバランスをとって、考えなければなりません。そのバランスというのも、両者を混在させてのバランスか、完全に分離させてのバランスか、ということについても頭を悩ませるはずです。しかしこれは教会堂に限ったことではなく、最初の教会の姿そのものがそうであったことを今日の聖書箇所は教えています。 先ほど読ませていただきました、今日の聖書箇所の後半部分は、皆さんがよく知っていると思います。なぜかというと、聖餐式のたびに読み上げられるみことばであるからです。しかし、こうして前後の箇所にまで広げて聖書を読んでみると、パウロは、ここを聖餐式のために語っているわけではない、ということに気づきます。彼が語ろうとしたのは、聖餐ではなく、愛餐でした。つまり、この箇所の前半、教会の愛餐が愛餐の名に値しない、勝手気ままな食事になっていることが指摘されたあと、その流れの中で、イエス・キリストが最後の晩餐の中で、弟子たちに宣言された言葉が語られていくのです。 先ほど、教会は聖俗のバランスを考えなければならないという話をしましたが、じつは愛餐と聖餐の関係がそうでありました。現代の教会では、聖餐式と愛餐会を分けています。洗礼式に並ぶ、聖礼典の一つであるものが聖餐式、礼拝が終わった後にみんなで食事を囲むのが愛餐会、そういう理解です。しかし二千年前の教会においては、聖餐と愛餐は分けられていなかったのです。まったく同じものではないにしても、そこに流れていた精神は一つでありました。それは、聖餐も愛餐も、主の十字架の恵みをおぼえながら守るものであったこと、それぞれが教会のからだのひとつであることを意識しながら守るものであったこと、お互いがお互いを顧みながら、守るべきものであったこと。 私は今わざと「守るもの」という言葉を繰り返しました。聖餐も愛餐も、参加するものではなく、守るものです。その意識を失ってしまうと、私たちは聖餐を義務的な儀式にしてしまうし、愛餐をただのお食事と考えるようになる。礼拝は厳格に守っているクリスチャンが、健康状態や特別の理由以外で、愛餐の前には帰ってしまうという場合、愛餐を礼拝や聖餐よりも低い所に置いているということがないかどうか、私たちは自分を点検するべきでしょう。 昔聞いたたとえ話ですが、天国での宴会には、1メートルくらいの長いはししか置いていないそうです。それを使って自分の口に運ぼうとしても長すぎてうまくいかない。向かいに座っている人の口に運んであげるために、長いのだと言うのです。行ったことがないので実際はわかりませんし、手づかみで食べるのがテーブルマナーの国ではどうなのというツッコミ所はありますが、愛餐は読んで字のごとく、私たちが愛し合う姿勢が問われます。同時に、愛餐は人間同士の交わりだけでなく、常に神を意識して開かれるものでもあります。今日の招きの言葉では、イスラエルの長老たちが、神に招かれて食事をする場面が描かれていました。愛餐は人との関係、神との関係両方に関わっています。 今日の聖書箇所の最初のほうを見ると、コリントの教会では、神を恐れつつ、そしてお互いに愛し合うことを表す場としての愛餐が、完全に崩れていたようです。確かに食べ物を持ち寄って、愛餐も開いていたのですが、富んでいる者は自分たちだけで食事をして、貧しい信徒を顧みようとせず、中には酔っている者もいるほどでした。そしてそのように愛と配慮に欠けた、名前だけの愛餐を行っていた人々が、恵みとまことに満ちた聖餐を守ることができるはずもありません。ですからパウロは、名ばかりの愛餐に警告を与えた後、そのままの流れで感謝も悔い改めもない聖餐について語っているのです。 愛餐がないがしろにされる教会では、聖餐がないがしろにされます。同じように聖餐に悔い改めのない教会では、愛餐もただの騒がしいもので終わってしまいます。私たちの教会はどうでしょうか。そこに加わっている人びとが、愛餐を通して自分が教会の一部であることをかみしめることができるように、また聖餐を通して、キリストが十字架で払ってくださった犠牲の前に、全員が心を突き刺されるような教会でありたいと願います。2017 新日本聖書刊行会