聖書箇所 ヨハネ20章24~31節 24十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。 26八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。先週の日曜日の午後、牧師就任式の司式をするために村上福音キリスト教会に行ってきました。村上の信徒はもとより、新発田キリスト教会の方も何名か来ておられ、交わりを頂きました。コロナが始まるまでは、村上・新発田・豊栄の三教会で村新豊交流会を行っていましたので、今年か、あるいは来年かは、ぜひ復活したいね、なんてことも話題に上りました。 豊栄のほうは桜の花がすっかり散ってしまいましたが、村上のほうはまだ結構残っているようでした。盆地になっている村上市は、町中どこにいても、山がすぐ近くに見えるという場所ですが、休憩するために立ち寄った店の駐車場から見えた山並の色合いが、ちょうど今日の週報に掲載した写真と同じような感じでした。ここにまた春山を負う港あり、という俳句も付け加えてみましたが、春の山の良さといういうのは、早咲きと遅咲きが一緒になって独特の色合いを出しているところです。濃い緑、薄い緑、桃色、山吹、私はこの豊かな色合いこそ、教会のすばらしさではないかと思います。個性の違い、年齢や性別の違いはありますが、イエス・キリストを信じる信仰においては一つ、そしてその一つの信仰があるからこそ、決して無秩序ではなく、個性が個性として輝いている。それがキリストの弟子たちの集まりであり、キリストのからだである教会の本質だと信じています。 今日の聖書箇所も、私たちは決して不信仰のトマスという色眼鏡で見ることはしないようにしたいものです。トマスはかつて、弟子たちに対して「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と言ったほど、イエスを愛していた弟子でした。ここで彼が語っている「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」という言葉は、不信仰というよりは、彼の激しい感情が行き場を失っている姿とみることができます。 トマスはイエスが弟子たちの前に現れたとき、そこにいなかった。なぜ一人だけいなかったのでしょうか。福音書の中に断片的に語られる彼の人となりから想像すると、彼は自分を許すことができなかったのではないか、と思うのです。かつてはイエス様と一緒に死のうとまで言っていた自分がなぜ、どうして、逃げ出してしまったのか。ここには、あのペテロ以上に傷ついている一人の弟子が、イエス様を見捨てた、裏切ってしまったという心の傷に苦しんでいる一人の人が確かにいました。同じように逃げ出してしまった仲間の中に溶け込めば、その傷も少しは忘れられるかもしれません。しかしトマスのまっすぐな心は、それを自らに許さなかったのでしょう。彼にとって、イエスの前から逃げ出してしまった自分をひたすら責め続けることが、唯一の贖罪でした。みんなが逃げたんだよ。おまえだけ特別ではないよ。そのような慰めを受け取って心を軽くくすることを彼は拒み続けました。イエスは死んだのだ。私が見捨てたからこそ死んでしまったのだ。そのように頑なに自らを責め、イエスがよみがえったことさえも拒み続けることが、トマスにとって、自分が犯してしまった罪の大きさに向き合うことになっていたのではないかと思うのです。 ある若い伝道師の経験ですが、平日夜遅く、教会に、酒を飲んだ男性がやってきたそうです。そしてその伝道師に言いました。「おまえのところのイエス・キリストを見せてくれよ。そうしたら信じてやるから」。伝道師は、よっぱらいだから何を言っても通じまいと思いつつ、「イエス様を見せることはできませんが、イエス様はみことばの中に生きておられます。今日はもう遅いですから、明日以降、一緒に聖書の勉強をしてみませんか」と言ったら、「もう二度と来ねえよ」と捨て台詞を残して、彼は帰ってしまいました。 この伝道師は、何が足りなかったんだろうと首をかしげましたが、わかりませんでした。忠実な人でしたが、経験が足りなかったのです。キリストを見せてくれと誰かが言ってきたら、見せようとしてはいけません。見せるのではなく、その人はいったい何を求めて、そのようなことを言っているのかという心の声を聞かなければなりません。「神を見せてくれ」という人々は、決してクリスチャンをからかっているわけでもありません。無理難題を言って困らせているようですが、彼らの心はただひとつ、自分の声を聞いてくれ。声にならない声を聞いてくれ。ぼろぼろの心を知ってくれ。どこへ向かったらよいのか、答えではなく、この不安に耳を傾けてほしい。答えを与えることが答えではなく、まず問いかけに寄り添おうとすることを人々は求めています。 それはトマスも同じでした。イエスを見捨てたという心の深い傷の中で、彼が求めていたことは、じつは彼の言葉とは裏腹に、イエスの傷跡に手を突っ込むことではなかったのです。どうすることもできない悲しみの中でこんな風にしか言えなかった、彼の痛みを私たちは想像する力を持たなければなりません。なぜならば、今日、教会の中に、教会の外に、自分の思いをこのような言葉でしか表すことができない、苦しんでいる魂が果てしなくいるからです。 落語家の間に伝わる川柳に、「噺家殺すに刃物をいらぬ、あくび一つもあればいい」というのがありますが、教会を殺すのも刃物はいりません。「この教会には交わりがない」と言えば、それだけで牧師も信徒も凍り付きます。しかし教会は死にません。イエス様が主だからです。八日後、つまりその日を含めたちょうど一週間後の主日に、イエス様はまた同じように現れてくださいました。内側から鍵がかかっていた部屋に突然現れ、「平安があるように」と呼びかけてくださいました。そしてイエス様はトマスにこう言われました。27節、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。 これはその前の週のトマスの言葉に完全に対応していることがわかるでしょう。私たちの思い、言葉をイエス様はすべてご存じであり、完全な答えをくださる方です。日曜日、私たちが教会の門をくぐりさえすれば、そこには人生のすべての答えが待っているのです。日曜日、教会へ行けば、イエス様に会える。一週間のすべての問題に対する答えがある。もし指をつっこんだら私は神を信じるといったトマスのかたくなな心は、イエスとの再会によって露と砕け散りました。私たちもまた、この日曜礼拝がそのような恵みの時であることをおぼえ、トマスのように疲れた心をイエス様から優しく取り扱われていきたいと願います。救いをいただいていることは確かでも、自分の心の中にある罪やわだかまりに今も影響されていることが、クリスチャン生活の中にはあります。もしそれに気づかされたなら、イエス様はとっくの昔にそれを赦してくださっているのだということを思いましょう。そして私たちが心から喜びをもって生きていくことを望んでおられるのだ、と。今日を始まりとして、これからの一週間も、よみがえったイエス様と一緒に歩んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会