聖書箇所 ヨハネ20章19~23節 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」20こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。21イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」先週の礼拝説教では、マグダラのマリアがイエス様に出会い、悲しみから喜びへと変えられていった姿について一緒に学びました。日曜日の早朝、彼女はよみがえったイエス様に出会い、弟子たちのところへ急いで戻ってこのことを伝えます。今週の聖書箇所は、その続きからです。しかし残念ながら、マリアが伝えた良い知らせを聞いても、弟子たちは信じませんでした。ユダヤでは、一日は夕方から始まります。日曜日から月曜日へと日付が切り替わる、この夕方になっても、彼らは重苦しい空気の中で過ごしていました。まるで借金取りを恐れて息を潜めている人のように、彼らは部屋の中に閉じこもって、せっかくの日曜日を終えようとしていたのです。 なぜでしょうか。聖書はこう記録しています。19節、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた」と。彼らを支配していたのは、ユダヤ人への恐れでした。イエスを十字架につけたユダヤ人たちが、今この扉を破って自分たちも、ローマの兵隊に引き渡すのではないか。何とみじめな姿でしょうか。何と哀れな姿でしょうか。力がないからみじめなのではありません。無力だから哀れなのではない。力に気づいていないからみじめなのです。世界を変える力を持ちながら、自分を無力だと考えているからあわれなのです。キリストがよみがえられたことを信じようとしない、キリストの弟子の姿は、世界でいちばんあわれな者です。イエスを十字架にかけた祭司長たちは、弟子たちが考えていたような恐ろしい者たちではなく、ローマ帝国の許可がなければ、何もすることができない人々でした。しかしこの弟子たちは、そんな弱いユダヤ人たちをさらに恐れて、生きていました。戸のすきまから光がもれることがないように、彼らは夕闇が迫る中で、ともしびもつけなかったのかもしれません。 しかしその恐れは、突然、終わりを告げるのです。何の前触れもなく、突然その真ん中にイエス様が来られたのです。それは彼らが呼び込んだものではありませんでした。ただ神の一方的なあわれみの中で、世界でいちばん哀れな集団の中にキリストは立って言われたのです。「平安があなたがたにあるように」。 「平安」を表わすヘブル語はシャロームです。それはただの平安ではなく、神だけが与えることのできる平安を意味します。私たち日本人は平安という言葉に対して、静かな夜にこうこうとあたりを照らす月の光のようなイメージを持っています。しかしシャロームは、何も問題が起こらない、静かな平安ではありません。問題が山積みになっていて、どれも解決の糸口が見つからないほどにこんがらがっていても、それでも神が共におられるときに、私たちは心安らかにされる、という神の平和を意味します。たとえ目の前が焼け野原でも、がれきの山でも、喉が焼け付くような日照りの中でも、神が共におられる。それが「シャローム」という言葉の意味です。実際、イエス様はこの挨拶の後、その手とわき腹を弟子たちに示された、とあります。そこにあったのはなんでしょうか。イエス様の真っ白な肌でしょうか。いいえ、血がこびりつき、釘と槍に突き通された穴がまだどす黒く残っているような、痛々しい生傷です。イエス様はそれを弟子たちに見せながら、「平安あれ」と語られたのです。 その傷は、イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たち自身が与えた傷でもありました。だからこの傷を見たとき、弟子たちは決して喜ぶことはできなかったでしょう。しかし聖書は、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。心の中にはどんな葛藤があっても、この方を見るとき、私たちの痛みはすべて溶けて、消えていきます。 聖書の言葉は、いつも私たちに静かで心落ち着かせるものとは限りません。むしろ私たちの罪をえぐり出し、みにくさをさらけ出します。しかしだからこそ、そこには本当の平安があるのです。確かに聖書は私たちをうちのめす、自分の罪について、みにくさについて悲しみをもたらすこともある、しかし決して悲しみで終わりはしない。その悲しみの先に、世が決して与えることのできない、慰めがある、励ましがある。弟子たちはまさにそれを経験しました。イエスの手とわき腹は彼らの恐れを映し出す鏡でした。しかし恐れに支配され、イエスを見捨てた彼らをイエスは再び弟子として認め、声をかけてくださったという喜びがそこにあったのです。 そしてイエスは、「平安あれ」という言葉をもう一度繰り返したあと、弟子たちに息を吹きかけてこう言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、それはそのまま残ります」。 日本の文学界で「小説の神様」と言われている志賀直哉という文豪がいます。彼が約20年間かけて書き上げた小説に、「暗夜行路」というものがあります。「暗夜」とは暗い夜、「行路」は行く路(みち)と書きますが、どんな小説かというと、まあなんと言いますか、これでもかこれでもかと主人公に悪いことばかり起こる物語です。この主人公、一説には彼自身がモデルと言われますが、両親に愛された記憶がなく、その愛情を埋めるために、様々な女性と恋愛関係に至ります。しかし付き合ったり結婚したりしても、必ず裏切られてしまう。さらに主人公自身が、実は祖父と母が不倫の末に生まれた子であることを知らされるなど、人間の闇が次々と現れる、だからこそ暗夜行路なのですが、そういうドロドロした小説です。しかし結局、主人公は自分を憎み、妻を憎み、かつて愛した女性たちを憎んでも、結局最終的に向き合わなければならないのは「赦し」だということに気づくのです。小説のクライマックスで、彼が山に登り、そこで朝日を仰ぎながら自分を含めてすべての人に対する憎しみを赦したくだりは、日本文学に残る名場面だと言われています。志賀直哉はクリスチャンではありませんでしたが、彼は青年時代、数年間にわたって内村鑑三というクリスチャンと交わりを持っていました。志賀直哉はクリスチャンではありませんが、クリスチャンである内村との交わりから、「赦し」とは何かということを人生を通して考え抜いた人でした。キリスト教は愛の宗教です。そして愛とは赦しです。 しかしクリスチャンであっても赦せないことがあります。それゆえに苦しみます。しかし私たちは赦せないことがあっても、赦す力の源である、聖霊をいただいています。だからこそ、今は赦せなくても、いつかは赦せる時が来る。そして赦せなくても、赦したいと願うならば、必ずそこから何かが変わっていくはずです。 多くの人々は、それはきれい事だ、できるはずがないと言います。しかし「夜明け前が一番暗い」という言葉があります。それは、私たちが一番苦しんでいる時こそ、次の瞬間には必ず夜明けが来るということです。一番苦しむとき、それは人を赦そうとしながら赦せない時でしょう。そして私たちの中に生きておられる聖霊は、私たちを赦してくださったように、必ずいつか、私たちも最も憎む者を赦すことができる、そのような奇跡を経験させてくださると信じています。今も親を赦せず、自分を赦せず、人を赦せない、多くの人々が、暗い夜の中を歩んでいます。しかしイエス・キリストの恵みは、どんな人にも必ず注がれます。私たちにも、私たち以外の人々にも。ひとり一人が今日の言葉を心に刻みつけて、歩んでいくことができますように。2017 新日本聖書刊行会