私が小学生の頃に読んだマンガ、故・石ノ森(当時は石森)章太郎先生の代表作『サイボーグ009』3巻(ベトナム戦争編)に、作者のコラム(読者からのお便り紹介)として、不思議な詩が紹介されていました。今回のウクライナとロシアの戦いを連想させるもので、40年ぶりにもう一度読み直そうとヤフオクにて送料込みで480円で入手しました。もともとの定価は220円でした。時代を感じます。


そこに書かれていた「読者からのお便り」にはこのようにあります。
これは今、サイゴンで流行している童話です。(注:昭和40年当時)私は、この童話が大変気に入りましたが、おかしなことに、いったい何をいっているのかわかりません。ベトナム戦争について語っていることくらいしか。先生には、わかりますか。この童話をベトナム戦記から見つけ出しました。・・・(中略)・・・先生に、お願いがあります。「(サイボーグ)009」たちがベトナムにいった時のようなマンガを、もう一度かいてほしいのです。ベトナム人民の苦しみを、よくあらわしたすばらしいマンガを、できればカエルとサソリの童話の意味も書き入れてください。(新潟市 H.M)
ロシアという大国がもつサソリの尾は、かつて同じ祖国の一部であったウクライナの人々の命を幾千も奪っています。しかし同時に、ロシアの普通の兵士たちの中にも、一生癒えることのない傷をもたらすのでしょう。もし石ノ森章太郎先生がご存命なら、このウクライナでの悲劇をどのようにかいたでしょうか。
前 奏
8身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。9堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

2017 新日本聖書刊行会
1.天地(あめつち)の御神をば ほめまつれ人の子よ われらが主の御殿(みとの)こそ 照り輝け いや栄(は)えて
2.光をば衣(ころも)とし 黒雲を車とし 雷(いかずち)してさきおわせ よろず治(し)らす かしこさよ
3.いとくすし主の律法(おきて) 雪と敷き雨と降り 谷を走り野に流れ 風とそよぎ花と咲く
4.塵(ちり)ひじに生(な)りし身は 主に頼るほかぞなき 代々(よよ)変わらぬ御恵みや わが御神よ、わが父よ アーメン
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン
代表祈祷 (司会者)
32さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」33そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、34彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」35それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」37イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。38誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」39イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。40そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。42立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

2017 新日本聖書刊行会
黙想(換気)
1.
「お祈りください」「祈っています」。クリスチャンの間では当たり前のように使われているやりとりです。私たちは「祈り」が現実を変えることのできる神の力であることを本気で信じています。たとえ世の人々にとっては愚かに見えても、私たちにとってはそうではありません。どんな小さな者の祈りも、神の国の石垣の中に組み込まれています。そしてイエス・キリストがゲツセマネの園で弟子たちに命じられた言葉からも、その真理を学ぶことができるのです。
十字架が刻一刻と迫る夜、イエスは、オリーブの木が生い茂るゲツセマネの園に向かわれました。そして弟子たちの中からペテロ、ヨハネ、ヤコブの三名を特別に選び、彼らを連れて園の奥に入っていかれました。なぜ主はこの三人を選ばれたのでしょうか。それは、この三人をまことの弟子とするためには、彼らが自分自身の姿を知らなければならないことを教えるためであったのかもしれません。ペテロは、イエス様のためなら命を捨てると言いました。ヨハネとヤコブは、イエス様から「わたしが飲もうとしている杯をあなたがたは飲めますか」と聞かれたとき、「飲めます」と答えました。しかし彼らは自分たちの弱さを知らない。ペテロは土壇場でイエスを知らないと言って逃げ出します。ヨハネとヤコブも、十字架の杯に口をつけることもなく、やはり逃げ出します。
私たちは、自分の本当の姿を知らないままでは、神に本気になって頼ろうとはしません。口先では神を信じていると言っても、心の中では自分で何とかできると考えます。本当の自分は、自分が思っているような人間ではないと打ちのめされて、初めてそこからまことの弟子としての一歩が始まるのです。だからこそ主はこの三人を選ばれました。イエスのためなら命を捨てると言いながら、わずかな時間さえも祈り続けることができない、屈辱にまみれた姿を体験させました。
2.
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」。イエス様は自分の弱さを見せることも恥となさいませんでした。それは自分が強いと過信する者に対して、本当の強さは自らの弱さを認め、父なる神にゆだねきった者の中にあることを教えるためでした。「恐れ」「もだえ」「悲しみ」「死」・・・およそ王の王、主の主にはふさわしくない言葉が園に響きました。その叫びの主は、それまで三人が知っていたイエスとはまるで違います。あの凛とした神の御子が、弟子たちの前に弱さをさらけ出しています。恐れが顔に浮かび、その震える指先は、彼の苦悩を示します。その唇からは「悲しみ」、あまつさえ「死」という言葉さえ飛び出した。そして主は三人に懇願します。「ここを離れないでくれ」。「目をさましていてくれ」。わたしと一緒に、目をさまして祈っていてください。
十字架は、まことの神であり、まことの人であるイエスにしか背負うことのできないものです。人は、自分が罪人であることを受け入れようとしません。そして受け入れたとしても、その罪の事実を小さく扱い、罪意識を薄めます。「みながやっているんだから」「仕方がなかったんだ」という具合にです。しかしイエスは、人間がみな罪の奴隷となっている現実から決して目をそむけません。だからこそ、イエスは弟子たちの前に、人としての弱さをさらけ出します。「私は悲しみのあまり死にそうです」と。全人類の罪のために、今自分が身代わりとなる時がやってきた。この地上の誰も、その苦悩を理解できるものはいない。全人類の身代わりとして父なる神から引き離されてしまうという悲しみ。十字架の上で愛する父からのろわれた者となる悲しみ。弟子たちは、その苦しみの深さはまったくわからない。しかしキリストは、それでも弟子たちに懇願するのです。どうか目を覚ましていてくれ。私をひとりにしないでくれ。一緒に祈っていてくれ。あなたがたの祈りが、今の私には必要なのだ。
3.
イエス・キリストは弟子たちから目を上げて、高く目を天に向ける。闇空を春の月が煌々と照らし、穏やかな風が吹いている。しかしこの瞬間、キリストには聞こえていたでしょう。この穏やかそのものに見える世界の裏側で、今よみの門が重い扉を開き始めた音を。罪も死も一切関わりのないはずのお方が、いま全人類の罪を背負い、死というさばきを受けるために、十字架に向かおうとしている。その戦いは、神の子イエスでさえ、この杯を取りのけてくださいと願わずにはいられないほどの恐怖との戦いでした。イエスはすべての人間の身代わりとなられましたが、イエスの身代わりになれる人はだれもいません。たった一人の孤独な戦いです。そして誘惑者であるサタンは、イエスが最も祈りの支援を必要としておられるその時、弟子たちを見事に眠りこけさせることに成功しました。サタンは勝ち誇ってこうささやいたかもしれません。「キリストよ、あなたはひとりぼっちだ。あなたのために命を捨てると言った弟子たちもあなたを見捨て、そして十字架の上で神もあなたを見捨てるだろう」。
しかしイエスは、決して祈ることをやめることはありません。十字架への道から逃げることはありません。ひたすら父なる神に祈り、叫び、何度も弟子たちのもとにやってきて、こう語られました。誘惑に陥らないように目をさまして、祈っていなさい。私の祈りの姿を目に焼き付け、私の祈りの言葉から学びなさい。そしてイエスの祈りの言葉は、私たちがどんな状況にあっても忘れてはならない言葉です。「しかし、わたしの願うところではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と。
結.
私たちの祈りは、小さな祈りです。しかしそんな私たちの祈りを、今も主は必要としておられる。私たちの願いが叶えられるために祈るのではなく、みこころが実現するために私たちは祈ります。弟子たちは眠りこけているばかりでしたが、しかし最後に彼らの目には祈りがもたらす姿が映し出されました。イエスが祈りの後、たてがみを震わせて大声で叫ぶ獅子のように立ち上がり、十字架に向かっていく姿を彼らは目にしたのです。42節、「立ちなさい。さあ、行くのです」。罪を繰り返し己の弱さを嘆く者は、主の祈りの姿に学びましょう。現実の戦いの中で疲れ果てた者は、主の祈りの言葉を口ずさみましょう。そしてあらゆるクリスチャンは、どんなに小さな者の祈りをも必要としておられる主をほめたたえましょう。主は勝利されました。ゲツセマネでの祈りを通して、十字架を確かに選び取ったとき、イエス様はすでに悪魔に対して圧倒的な勝利をされたのです。私たちも、祈りを通して勝ちゆく者たちです。目を覚まして、みこころが実現するために祈り続けましょう。
1.御国をも御座(みくら)をも 後に捨てまして 降りにしイエス君を 受くる家あらず 住み給え君よ ここにこの胸に
2.御使いは声高く 御名をほむれども 神の子はうまぶねに 生まれ給いけり 住み給え君よ ここにこの胸に
3.狐にも穴はあり 鳥に巣はあれど 人の子は地の上に 眠り給いけり 住み給え君よ ここにこの胸に
4.つながれし罪人を 放ちます君を カルバリに苦しめし 人のつれなさよ 住み給え君よ ここにこの胸に アーメン
報 告
父 御子 御霊の おお御神に ときわに絶えせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン
主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
後 奏