前 奏3【主】に連なる異国の民は言ってはならない。「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。4なぜなら、【主】がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、5わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。6また、【主】に連なって主に仕え、【主】の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、7わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。2017 新日本聖書刊行会
1.たたえよ救い主イエスを くすしき愛をば宣べ 崇めよ御使いと共に 尊きイエスの御名をば か弱き我ら羊を 飼い主イエスはいだく たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く 2.たたえよ人の罪ゆえに 十字架につきし君を 君こそとこしえの岩よ 変わらぬ我が望みよ 心の病ことごと 癒やされ安き受けぬ たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く 3.たたえよ栄えあるイエスを 御国の門(かど)揺るがせ ときわに統べたもうイエスに 冠(かむり)をささげまつり まもなくイエスは来たりて あまねく地をば治めん たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)41エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。43やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、44そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」 45それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、46彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」47イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、48何をしたらよいのか分からなかった。人々がみな、イエスのことばに熱心に耳を傾けていたからである。2017 新日本聖書刊行会
序. 四旬節の二週目に入りました。四旬節の「四旬」とは、40日を指します。聖書では40日は苦しみを象徴する期間とされていますが、イエス様が十字架で私たちのために死んでくださった苦しみを、私たちは実際の40日間、約6週にわたる礼拝の中でとくにおぼえつつ、そして今年は4月17日にあたる復活の日、イースターを迎えるのです。礼拝説教においては、イエス様が十字架へと一歩一歩向かっていく姿を何週間かにわたって一緒に見ていくことを考えています。 1. さて、過越の祭が一週間後に迫った中、イエス・キリストは、人々の大歓声を受けながら、エルサレムへと近づいておられました。イエス様は救い主の象徴である、ろばの子にまたがり、人々は棕櫚の枝や、自分たちの上着を赤絨毯のように敷いて、エルサレムの城門まで花道を整えました。人々の歓声や、喜ぶ表情を見ながら、イエスの弟子たちは誇らしい気持ちで一杯だったでしょう。しかしイエス様の思いはどうだったでしょうか。聖書はこう記しています。「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いた」と。ここで「泣いた」と訳されている言葉は、声をあげて激しく泣き叫んだという意味です。エルサレム、それは過去も、現在も、未来も、どこを切り取っても、神を悲しませるもので満ちていました。 過去。数千年のあいだ、神は預言者たちを通して、エルサレムに罪の悔い改めを語ってきました。しかしこの町の人々は悔い改めるどころか、預言者たちを捕らえて殺してきたのです。 現在。神はイエス・キリストという人として地上にお下りになり、みことばと奇跡を用いてエルサレムを再び悔い改めに導こうとされました。しかしエルサレムは、救い主を受け入れようとしません。イエスを歓迎しているのは、エルサレムの人々ではなく、ガリラヤや、外国から過越の祭のために集まってきた人々です。そして彼らもやがてイエスを見捨て、十字架につけろと叫ぶようになります。ましてやエルサレムの人々は、イエスを歓迎するどころか、むしろイエスを捕らえて殺そうとしている者たちさえいました。 そして未来。悔い改めを拒み続けたエルサレムは、紀元70年、ローマ皇帝の軍隊に包囲され、美しかった神殿は焼かれて崩されて廃墟となり、エルサレムの人々は老人から赤子に至るまで、数万、数十万人の犠牲者を生み出します。 2. イエス様は、かたくなな心から決して離れようとしないエルサレムのために、声をあげて激しく泣き叫びました。「それは、神の訪れの時をお前が知らなかったからだ」と。イエス様の叫びは、私たちひとり一人に対する慟哭でもあります。自分自身を見つめることなく、心をかたくなにしていたのは私たち自身でした。神を悲しませてきた自分の生き方に気づくことなく、自分は正しいと信じ込んで、かえって神も人も傷つけて生きてきたのは私たちでした。イエス様がエルサレムに対して流された涙は、私たちに対するあわれみの涙でもあります。二千年前にエルサレムの町の外に立てられた十字架は、私たちの心に立てられるべき十字架でした。そしてエルサレムの人々がイエスを信じることができなかったのに、私たちが信じることができたのは、ただ神さまのあわれみです。あわれみによって救われた私たちひとり一人だからこそ、改めて今日、みことばによって心を砕かれて、イエス様を愛する者とさせていただきたいと願います。 イエス様はエルサレムに入ると、真っ先に宮に向かわれました。そしてここから、「宮きよめ」と呼ばれる、有名な出来事が始まります。ここに描かれているイエス様の姿は、私たちが知っている柔和な救い主のイメージからはかけ離れているかもしれません。しかし、神の怒りは、神の愛と表裏一体です。イエス様が商売人を追い出し、いすを打ち倒しているその怒りの激しさは、神が涙を流しながら失われた人々を探し回り、救おうとしておられる愛の激しさの裏返しです。なぜイエス様は、ここまでお怒りになったのでしょうか。それは、これらの商売人や両替人、そして彼らと結託していた祭司階級、彼らの欲望のために、神を心から求める人々の礼拝が奪われていたからです。 3. いけにえを売る者たちや、両替人たちは、神殿の中に陣取っていたのではなく、前庭にあたる「異邦人の庭」で売り買いをしていました。その異邦人の庭は、イスラエルのまことの神を信じるようになった改宗者たちが、みことばを聞くことのできる唯一の場所でした。外国人は、たとえ改宗したとしても、神殿の中に入ることはできなかったのです。彼らにとって、その異邦人の庭こそが、神を礼拝することができる神殿そのものでした。しかし「私の父の家を強盗の巣にした」とイエス様に言われた人々は、外国人にとって、神を礼拝することができる唯一の場所である、異邦人の庭を奪ってしまったのです。 現代の教会は、社会が求める現実的なニーズに答えていく責任があります。給食事業や学習支援など、それはこれから私たちの教会も協力することができるでしょうし、そのために新しく広い場所が与えられたとも感じています。しかし同時に、教会というところはいつでも祈り、礼拝をささげ、聖書を開くことができる場所であるべきです。イエス様が神殿の現実に激しく憤られたのは、神に出会うべき異邦人の庭で売り買いや両替の場となっており、異邦人たちの礼拝が妨げられていることでした。では金儲けでなければよいのでしょうか。否、たとえどんなに人々に喜ばれる働きであっても、礼拝が妨げられるようであれば同じです。私たちは礼拝と聞くと日曜日を連想しますが、それは主日礼拝という一つの形だけを指しています。教会は礼拝をささげるところという定義がまことであれば、それはだれでも、どんなときでも、教会に来て礼拝や祈祷をささげることができるということです。教会が地域の方々のニーズに応えるものであると同時に、それとはまた違う、神の前で祈りたい、整えられた場所で礼拝をささげたい、と求める人々もまた、いつでもお迎えできるような、そのようなビジョンを求めていきたいと願っています。 結. 異邦人の庭から商売人たちを追い出した翌日から、イエス様は十字架までの一週間、毎日、神殿でみことばを教えました。ユダヤ人に対しては神殿の中で、異邦人に対しては神殿の庭で語られたのかもしれません。イエス様にとって、地上での最後の一週間、まさにライフワークは、みことばを語ることであったことがわかります。みことばが語られるとき、私たちの心の中に救いの喜びが沸き起こります。しかしそのために必要なことは、私たち自身の心の中が、神を礼拝するための異邦人の庭のように、整えられているということです。あなたの心の中は、イエス様が宮をきよめる前のような、家畜の鳴き声や、貨幣をじゃらじゃらという雑音に覆われてはいないでしょうか。イエス様は、あなたの心の中から雑音や雑念を放り投げてくださるお方です。祈りの家でささげられる礼拝にふさわしく、私たちもまた最後にそれぞれで祈りましょう。この豊栄キリスト教会が、町の人々にとって必要な場所となると同時に、いつでも祈ることができる場所として整えられていくように。そのために今取り組んでいる新会堂建設においても、神が豊かに導いてくださるように。そして私たちひとり一人の心が、求道者もクリスチャンも、神のことばがよく聞こえるまっさらな場所として、イエス様が整えてくださるように。報 告1.馬槽の中に産声(うぶごえ)あげ 木工(たくみ)の家に人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ 2.食する暇もうち忘れて 虐げられし人を訪ね 友なき者の友となりて 心砕きし この人を見よ 3.すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで 十字架の上に上げられつつ 敵を赦しし この人を見よ 4.この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現れたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.3.13主日礼拝説教「礼拝を奪われた怒り」(ルカ19:41-47)
アーノルド・シュワルツェネッガー氏が反戦を呼びかけた動画が話題です。
本来の動画は9分を超える長さで、ここでは前半が省略されていますが、そこでは14歳のときにロシア人の重量挙げ選手ユーリ・ウラソフに憧れて身体を鍛えるようになり、俳優、そして政治家に至った人生について語られています。(映像の0:17部分でちらっと映る青色のコーヒーカップは、ずっと後になってウラソフからもらったものだそうです)全文の翻訳は、毎日新聞社のニュース記事シュワルツェネッガーさん「無意味な戦争の犠牲に」 ロシア国民へ動画から読むことができますので、ご覧ください。ウクライナとロシアとの戦争が始まって以来聞いた多くのメッセージの中で、これほど簡潔でわかりやすく、さらにウクライナ人だけでなくロシア人に対しても温かさを失なわないメッセージを私は知りません。戦いが一日も早く終わり、ロシアとウクライナが心の底から和解できる日が訪れるように祈りましょう。