ウクライナ戦争がますます泥沼化しています。お祈りください。
「今回の戦争の背後には、東部の親ロシア派住民に対する虐殺行為があった」「プーチンが望んでいることは、ロシアとNATO加盟国との間に緩衝地帯を作ること」といった一部論調があります。私は大学時代に近代ドイツ史が専門でしたが、このような論調は、まさにヒトラーがチェコスロバキアを攻撃したときとまったく同じでした。当時、チェコは「ドイツの下腹にささった短剣」と言われる地理的条件にあり、またドイツとの国境地帯、ズデーテンラント地方には親ドイツ人が住んでいました。ヒトラーはオーストリアを併合した後、ズデーテンラントを割譲すればこれ以上の領土拡大は必要ないと主張して、結局はその後、チェコ全体を併合、さらにポーランドに攻め込み、第二次世界大戦を引き起こしたのです。
プーチンは「昭和の人」です。(私も昭和生まれです)ソ連崩壊のきっかけとも言えるベルリンの壁崩壊は1989年、日本ではちょうど平成に入った年でした。プーチンの理想とする国家は、昭和時代の強いソ連です。ですから彼の夢はウクライナ東部住民を守るとか、緩衝地帯を設けるといったもので終わるはずがありません。彼はこれからも、核ミサイルのボタンを常に握りしめながら、自分の夢に向かって進んでいくことでしょう。それは彼以外の80億人にとっては悪夢でしかありませんが、彼にとっては正義なのです。
彼は80億人の命を人質に、これからも要求を出していくことでしょう。しかし地上での人の悪にも関わらず、神のみこころは地上でもその栄光を現されます。私たちは今は祈ることしかできませんが、祈りが教会に与えられた唯一の武器であることを認めなければなりません。
前 奏
44天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。45天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。46高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。47また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。48網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。49この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、50火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

2017 新日本聖書刊行会
1.父の神よ 夜は去りて 新たなる 朝となりぬ われらは今 御前に出でて 御名を崇む
2.万有の主よ 御顔仰ぐ しもべらを 強くなして 天つ国の 尽きぬ恵みを 得させ給え
3.三つにまして ひとりの神 御救いは 尊きかな 御名の光 照り輝きて 世にあまねし アーメン
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン
代表祈祷 (司会者)
18イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」20彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。21イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。22彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。

2017 新日本聖書刊行会
黙想(換気)
序.
北京で開かれていた冬季オリンピックが閉幕しました。日本人選手は18個のメダルを獲得し、これは歴代最多の快挙であったそうです。この冬季オリンピックで行われた競技のひとつに、ノルディックスキー複合というものがあります。欧米では「キング・オブ・スキー」、スキー競技の王様という面白い名前がついています。どこらへんが王様かというと、この競技はクロスカントリースキーとスキージャンプの二つの競技が組み合わされているのですが、一方は持久力が必要、もう一方は瞬発力が必要とされており、この二つはあたかも綱引きのような関係にあります。つまり、持久力をつけようとすれば瞬発力が下がり、逆に瞬発力を上げようとすれば、持久力が落ちる。今回、この競技で日本に銅メダルをもたらした渡部暁斗(わたべ・あきと)選手が、こんなコメントを残しています。
ジャンプだと、体重が軽ければその分、滞空時間は伸びますので、有利に働きます。でも、一方のクロスカントリーに置き換えると、パワー不足。スピードが出せない。なので、一方を求めるとなれば一方を諦めなきゃいけない。あれもこれもは無理なんです。足し算のスポーツではないんですよ。精神的にも、日々何かを得ると同時に何かを失うことの繰り返しです。
1.
「何かを得ると同時に何かを失うことの繰り返し」。この言葉は、信仰生活にも当てはまります。私たちがイエス・キリストを信じたということは、渡邉選手の言葉を借りるならば、足し算ではなくて、引き算です。それまで自分が大切にしていたものを失い、新しくイエス・キリストというものを受けたのです。別の言葉で言い換えるならば、「あれもこれも」ではなくて「あれかこれか」です。
しかしもう少し説明を加えるならば、それはヘビースモーカーのお父さんが禁煙という二文字を大きく書いて、歯を食いしばってタバコを我慢する、といったものとは違っています。イエス・キリストの十字架の贖いが、頭ではなくて魂の中に聖霊によって注ぎ込まれるとき、私たちは自分が心地よさを感じる居場所を変えられていくのです。つまり、それまでは生活の中でこれがなければ人生楽しくない、と思っていたものよりも、はるかに心が安らぎ、喜びが沸き起こってくるものを与えられたとき、それまで大切にしていたものにさえ興味を失い、このイエス・キリストが自分自身の居場所となっていく。それが私たちが救いを得たことによって、何かを失う、ということです。
逆に、もし私たちがイエス・キリストを信じるということを、何も失うことなく、ただ今まで自分が持っていたものの上にイエスを追加する、上乗せすることだという考えにとどまっているならば、ある程度までは信仰とそれまでの楽しみを両立できても、時間・仕事・人間関係、こういったものが切羽詰まってきたときに、キリストを捨てるか、それともそれらのものを捨てるか、に直面したとき、信仰が激しく揺れ動く、ということが起こります。しかしそれが起こること自体が罪ではありません。自分の信仰がそこで試されていくということです。そしてそこで初めて自分にとって何が一番大切なのか、内なる御霊が示し、心の中に改めて喜びが沸き起こってくる、ということも起こるでしょう。
2.
聖書の中には、何かを得るために、何かを捨てた人々の話が数え切れないくらい出て来ます。畑に隠された宝を見つけた人は、全財産を売り払ってその地所を手に入れました。極上の真珠を見つけた商人もまた、全財産を売り払い、その真珠を手に入れました。惜しいと思わないのです。すべてを売り払っても手に入れたいもの、それがイエス・キリストにある永遠のいのちです。ペテロやヨハネといった人々も、まさに同じ思いで、自分の人生を差し出したのです。
イエスに出会い、イエスを信じた者たちは、何かを捨てなければなりません。信じる前は、誰もがそれにおびえるのです。捨てることはできない、と。しかし自分のために命を捨ててくださった方、イエス・キリストが、私たちの心の中に入ってきてくださったときに、それまで盲目的に、あるいは機械的に、これこれが人生に必要なものなのだ、何よりも大切なものなのだとすり込まれてきた心が、内側から生まれ変わります。そのすりこまれたこれこれは、人によって異なるでしょう。お金であったり、生きがいであったり、家族であったり、仕事であったり、ゲームソフトであったりします。しかしイエス・キリストはそれらのどれよりも価値があるものです。いや、むしろこの方が確かに生きておられるからこそ、私たちの中に価値が生まれると言うべきでしょう。
もしこのイエスに出会うことがなかったならば、そしてこの方を信じることがなかったならば、私たちの人生も、私たち自身も、むなしいものです。しかし神は、私たちがむなしいままでいることを決して望んでおられません。ましてや私たちが永遠の滅びに向かっていることに耐えられない、それが神の愛です。私たちがこの愛に応えるとき、神は私たちの中から何かをそぎ落とされます。しかしそれはなくても困らないものです。むしろそれに執着し続けているがゆえに、平安がないまま、生きている人々があまりにも多いのです。
3.
マタイは、今日の聖書の中で、あくまでもイエス様の目線を中心に書いています。つまり、ペテロとアンデレが網を打っていた、という書き方ではなく、ペテロとアンデレが網を打っているのをイエスはご覧になった、と書いています。ヤコブとヨハネの兄弟に対しても同じです。彼らが網を繕っているのを見ると、彼らをお呼びになった、と書かれています。イエスのまなざしが、この物語の真ん中にあります。これは何を意味しているのでしょうか。
キリストはご自分に従う者を知っておられます。そして彼らを見つめておられます。彼らは自分自身をよく知っています。自分は漁師しかできない、家族の面倒を見なければならない、生活の糧を得るために網を繕わなければならない・・・しかし主はすべてご存じです。そしてその上で、私に従いなさいと言われます。あなたの心配は、あなた以上にわたしが知っている。わたしがあなたをつくり、あなたを選んだのだから。だがあなたは網を捨てよ、舟を捨てよ、あなたの力だけで人生を支えていこうとする努力をやめよ、あなたの重荷を私にゆだねよ、あなたをずっと見つめてきた私が、あなたの人生を導いていくのだから、と。
「何かを手に入れるためには、何かを捨てなければならない」。それは私たちすべての人間にあてはまる真理です。もし救いを手に入れたいのであれば、今まで偶像に縛られていた生き方を捨てなければなりません。もし動かない平安を手に入れたいのであれば、不安を呼び起こしている、生活の中のさまざまなカスを捨てていかなければなりません。しかしそれは、私たちの力で変えていくのではない。私を生かす御霊なる神よ、私の中に満ちてください、そして私を導いてくださいと呼び求めていくのです。変えるのではなく、変えられなければならない。ひとり一人が、捨てることにおびえないように。変えられていく勇気と決断をもつことができるように。
1.われらは来たりぬ はるけき国より 星に導かれ 野山越えて
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
2.わが持ち来たれる 貴き黄金(こがね)を メシアの冠(かむり)の 飾りとなさん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
3.わが持ち来たれる 乳香ささげて いと高き御神 共にたたえん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
4.わが持ち来たれる 没薬ささげて 御苦しみの日に 備えまつらん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
5.よろずを統べます メシアは生まれぬ ハレルヤ ハレルヤ たたえまつらん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに アーメン
報 告
天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン
主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
後 奏