前 奏1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。3あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。2017 新日本聖書刊行会
1.主の真実(まこと)はくしきかな 迷い悩むこの身を とこしなえに変わらざる 父のもとに導く 大いなるは主のまことぞ 朝に夕に絶えせず 御恵みもて支え給う たたえまつらんわが主を 2.春も秋も夏冬も 月も星もすべては 主のまことと憐れみと 尽きぬ愛を表す 大いなるは 主のまことぞ 朝に夕に 絶えせず 御恵みもて 支え給う たたえまつらん わが主を 3.罪人らを憐れみて 救い給う御恵み 喜び満ち望みもて 仕えまつるうれしさ 大いなるは 主のまことぞ 朝に夕に 絶えせず 御恵みもて 支え給う たたえまつらん わが主を アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。15ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。16ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。2017 新日本聖書刊行会
1. 13、14節をお読みします。「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」 このみことばは、今年度の教会目標聖句として示されたものでもありますが、パウロがここで語っているのはマラソンではなく、戦車競走であったと言われます。戦車と言っても、自衛隊が乗っているような戦車ではもちろんありません。古代の戦車は、人一人が立つのがやっとの車輪付き荷台をを四頭がけの馬に引かせるというものでした。それはただ突っ立っていれば馬が勝手に走ってくれるというものではありません。バランスを保ち、馬を制御するために上体を前方に曲げ、全神経と筋肉を緊張させていなければなりません。パウロが「前のものに向かって身を伸ばし」という言葉は、四頭の馬の手綱を握りながら、バランスを保っていく競技者の姿を表しているものです。この戦車競技は古代オリンピックの花形競技の一つでしたが、スポーツとはいえ、しょっちゅう転倒事故が起こる、命がけのものでした。パウロが信仰人生をこのような危険な競技にたとえたのは、私たちが緊張感を失わないためです。 しかしパウロが言おうとしていることは、信仰生活は緊張感を失ってしまったら転げ落ちてしまう、ということではありません。キリストによって捕らえられたからこそ、緊張感を失うことなく、走り抜くことができるのです。神にすべてをゆだねることができる安心があるからこそ、そこにあぐらをかいて立ち止まることがありません。キリストによって捕らえられた者は、少しでもキリストに近づかずにはいられません。命令されたから走るのではなく、キリストに近づきたいがゆえに、走らずにはいられないのです。 2. 信仰生活の喜びは、このイエス・キリストだけを見つめ、この方のようになりたいと願い続けるところから生まれます。後ろでも隣でもなく、前を見つめ続けるのです。今までこれだけのことをやってきた、と後ろの実績で判断しない。あの人はあれだけやっているけど、自分は足りない、と隣を見て比べない。キリストに一歩でも、一センチでも近づきたい、と前を見つめ続ける。クリスチャンが自分をはかるための唯一の基準は、イエス・キリストです。そしてイエス・キリストがどういうお方はこの聖書の中にすべて記されており、私たちは聖書を日々食べることにより、イエスにますます近づいていくことができます。御霊の人は自分とキリストを比べますが、肉のままの人は自分と他人を比べます。自分とキリストを比べれば、私たちのだれもが、他人をさばく資格などないことに気づかされるでしょう。パウロが見つめていたのは、後ろや隣から追い迫る人や出来事ではなく、ゴールの先におられるイエス・キリストでした。 走らなかったらさばかれる、ということはありません。救いは、私たちの努力ではなく、キリストの犠牲によるものだからです。しかし救いへの感謝がこみ上げるとき、自分の力を尽くしてキリストの元へ走らずにはいられないのです。この世の競技では金メダルは一人分しか用意されていませんが、天国では全員の分が用意されています。しかし用意されていても受け取ることができるのは、神に任せられた賜物を存分に生かして走り通した者だけです。メダルを得るために必要なものは、選択と集中の二つです。最も大切なことは何かを選び取り、そのたった一つの大切なことのために、自分の時間、体力、知識、あらゆるものをつぎ込んでその日のために練習を繰り返す。オリンピック選手の姿は、それをわかりやすく教えてくれます。目標に向かってひたすら走る人は、結果がどうあろうとも後悔することは決してないのです。 3. 昨年、私たちは臨時教会総会を経て、葛塚の朝市通に面する場所に260坪余りの土地を購入しました。それは信仰がなければたどり着けなかった決断でした。そして今までここで宣教に励んできた教会が、新しい場所で宣教をさらに豊栄全体に拡大していく決意でもあります。教会は今までの働きを継続、あるいは再開しながら、それに加えて新しい働きも生み出されていくことでしょう。しかし会堂が生まれなければ、土地の広さも、立地も生かすことはできません。二つの拠点を同時に管理しながら何年も続けていくことは時間、人材、経済、あらゆる点で力を消耗します。選択と集中、それが私たちに必要なことです。委員会、役員会、教会全体での話し合いをまんべんなく行いつつ、しかし与えられている時間は多くないことをおぼえるべきでしょう。 このたびの教会総会で、準備委員会が提案した目的宣言文を、これからの教会が目指していくものとして正式に承認を図ります。会堂建設とは、その目的宣言文を絵に描いた餅に終わらせず、現実化していくための拠点となるものです。これからの一年は、この会堂建設を討議する十分な時間を確保するために、主日礼拝のかたちを変えていくことになります。具体的には、牧師が週代わりで二つの会堂を巡回、一方はこうして生で、他方はその中継動画を共有するというかたちで、同時に礼拝をささげます。奇抜な方法のように聞こえるかもしれませんが、今までも多くの教会でこれに似たことがされていました。会堂で密になる状況を避けるために、会堂に入りきれない方はホールや食堂など別室で礼拝を守ることをしていました。豊栄はそのスペースもないので、三回に分けて礼拝をせざるを得なかったのです。しかしこれからも朝から夕方まで礼拝をささげ、その後から会議という形を続けていくならば、会堂建設はますます長引いていくことになるでしょう。 今まで午後に行ってきた教会学校と第三礼拝を、朝市通での仮会堂で午前中に行うことで、この一年間の日曜午後を会堂建設の計画を作り上げていくために用いていきます。しかし第三礼拝に出席している方々だけに、毎週、向こうの場所でリモートで礼拝に出てくださいということはよくありません。ですから牧師が、第二礼拝の時間帯を週代わりで嘉山と朝市通それぞれで説教をすることになります。コロナ禍でなければそこまで行う必要はないでしょう。しかしコロナが終わるまで会堂建設は待ちましょうという余裕もないのです。一年を計画に費やし、次の一年を工事に費やし、あと残り二年が適切な時間です。その中心になるのは会堂建設準備委員会ですが、「ただ一つのことに向かって走る」のは委員会だけではなく、教会全体もそうです。選択と集中こそ、神から与えられたレースを勝利する秘訣であることをおぼえましょう。確かに払うべき犠牲はありますが、それをまさる祝福があると信じます。どうか客員・求道者の方を含めて、ひとり一人が心に刻みつけて、これからの一年間を歩んでいきましょう。報 告1.神は独り子を 賜うほどに 世人を愛し給う 神は愛なり ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり 2.罪をば犯して 神に背き 敵とう我さえ なお愛し給う ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり 3.罪赦さんために 我に代わり イエス君十字架に 死に給えり ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり 4.いざとく来たりて 神の愛に 汝が身を委ねよ 救わるべし ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン