前 奏3イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」2017 新日本聖書刊行会
1.おお御神をほめまつれ 尽きぬ命与えんと 独り子をも惜しみなく 世人のためくだしたもう ほめよ ほめよ 神の愛を 歌え 歌え 主のみわざを そのみわざに現れし 父なる神の恵みを 2.主は贖いなしとげて 御名に頼る人々の 罪はいかに深くとも 赦し与え助けたもう ほめよ ほめよ 神の愛を 歌え 歌え 主のみわざを そのみわざに現れし 父なる神の恵みを 3.げに尊き御救いよ いとくすしき御教えよ たぐいもなき喜びは 再び主にまみゆる日 ほめよ ほめよ 神の愛を 歌え 歌え 主のみわざを そのみわざに現れし 父なる神の恵みを アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)13そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。14しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」15しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。16イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」2017 新日本聖書刊行会
1. 「洗礼」という言葉は、クリスチャンに限らず、多くの人々に知られています。たとえば、ドラフト一位で入団したプロ野球投手が、初試合で、相手のバッターたちから次々に打たれたとき、「プロの世界から洗礼を受けた」という言い方をします。どうしてコテンパンにやられることが洗礼なのかと思うのですが、おそらく世の人々の想像する洗礼というのは、苦しみが伴うようなイメージがあるのでしょう。ところで、意外に思われるかもしれませんが、じつはこの新改訳2017の翻訳では、「洗礼」という言葉は一切使われず、すべて「バプテスマ」という言葉に置き換わっています。なぜよく知られている「洗礼」という言葉を使わず、世間一般にとって聞き慣れない「バプテスマ」という言葉にしているのでしょうか。じつは明治時代に聖書が入ってきた頃から、「バプテスマ」を洗礼と訳したのは適切な訳ではなかったのではないか、いう議論があるのです。 「洗礼」という日本語には、洗いきよめるというイメージがつきまといます。しかし聖書は、バプテスマは洗い清めるものではなく、生まれ変わるものとして教えています。ヨハネの福音書には、イエス様がユダヤ人教師ニコデモに対し、「人は御霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と語る場面があります。イエス様が語られる、聖霊によるバプテスマは、心洗われてきよくされるものではなく、完全に新しいものとして作り変えられることを意味していました。救いとは、古い着物を洗って新品同様にするのではなく、どんなにきれいに見えてもすべて取り替えて、新しいものへと作り変えられること、それが、私たちが経験した、聖霊によるバプテスマです。 ですから、私たちが何気なく使っている「洗礼式」という言葉は、「バプテスマ式」と呼ぶべきなのかもしれません。あるいは「新しく生まれる式」と書いて、「新生式」と呼ぶべきではないか、という提案も生まれます。それはあくまでも言葉の言い換えにすぎませんが、実際に皆様の心の中にしっかりと覚えていただきたいことは、私たちは聖霊のバプテスマをいただいて、完全に新しく生まれ変わった者なのだ、ということです。何も変わっていないように見えても、確かに新しく変えられているのです。それを保証するのは、私たちがどれだけ真人間になったかということではありません。イエス様が確かに語られたみことばを信じることです。イエス様は約束されました。人が聖霊を受けるとき、新しく生まれ変わることができる。そしてこの聖霊こそ、私たちの中に生きておられる助け主であり、この方が入ってきてくださったからこそ、私たちはイエスを救い主として告白することができたのです。そして今も、この聖霊によって新しく変えられ続けているのです。 2. 今日の聖書箇所の中で、解釈が難しいのは、なぜ罪のないイエス様が、ヨハネからバプテスマを受けることをよしとされたのか、ということでしょう。ヨハネのバプテスマは、罪人が悔い改めるためのものでした。イエスこそ、ヨハネにバプテスマを授けるはずのお方なのに、どうしてあなたのほうからバプテスマを受けに来られたのですか、とヨハネはイエス様に問いました。そこでイエス様はこう答えられました。15節、「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」。そこでヨハネは言われたとおりにした。 「このようにして正しいことをすべて実現することがわたしたちにはふさわしい」。この言葉を説明するにあたり、知っておくべきことがあります。じつはヨハネが現れるまで、バプテスマを受けたユダヤ人は一人もいませんでした。バプテスマという罪の悔い改めの儀式はあっても、それは外国人がユダヤ教に改宗する際に受けるものでした。ユダヤ人は、パリサイ人・サドカイ人だけでなく、みなが、アブラハムの子孫である自分たちは、先祖伝来、救いが約束されているからバプテスマは必要ない、と考えていたのです。しかしバプテスマのヨハネの言葉が、彼らの常識を揺るがせ、彼らの高ぶりを砕きました。罪の悔い改めのバプテスマを必要としているのは、外国人ではなく、我々ユダヤ人なのだ。アブラハムの子孫だから、すでに救いは保証されているというプライドに固まった者たちよ。そんなものは、石ころからでもアブラハムの子孫を作り出すことのできる、私たちの神の前では、何の意味もないのだ、と。 これが意味していること、バプテスマとは、心が徹底的に打ち砕かれることです。ユダヤ人は、自分たちは外国人よりはるかに優れているのだ、神に選ばれた民なのだ、という誇りによって何千年と生きていました。しかしその高ぶりを砕かれ、一人の罪人としてあわれみをひたすら求める、それがバプテスマです。ある教会で、バプテスマを受けたいと言ってきた求道者に、それではバプテスマの前に半年間の準備コースを受けましょうと牧師が言ったところ、そんなに時間がかかるのはいやだと言って教会に来なくなったそうです。私はそれをある人のブログで読みましたが、ブログ主は、どうして日本の教会は、バプテスマを受けたいと言っている人に、準備だとか学びだとか、長く時間がかかるものを背負わせるのかと批判していました。しかしバプテスマを受けたいが学びはいやだ、というような人には、私もバプテスマを授けないでしょう。バプテスマは、聖霊によって心砕かれた、しるしそのものです。心が徹底的に砕かれて、神のみこころに従っていくということを学びつつ確認するときです。 3. イエス様がバプテスマを受けられたのは、まさにこのイエスこそ、神のみこころに従い、徹底的に砕かれて、誰よりも低いところまで下ってこられたお方であったからです。神としてのあり方を捨てて、まことの人として地上にくだり、人々と同じ苦しみを背負い、十字架へ向かっていかれました。その先に待っているものは、身代わりの死でした。それは、ヨハネのバプテスマが意味していた、心砕かれて謙遜とされていく、究極の姿でありました。ですからイエスは、私たちの模範として、バプテスマを自ら受けられたのです。 イエス・キリストがバプテスマを受けて岸に上がられると、天が開け、御霊が鳩のように下られました。そして天から父なる神の言葉が響きます。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と。このような三位一体の神のやりとりは、まさに一つの家族が愛し合う姿そのものです。しかしその先に待ち受けていたものは、十字架の苦しみでした。このヨルダン川での美しい交わりは切り離され、イエスは十字架の上で、神にのろわれた者としてひたすらもがき苦しまれました。それはだれのためでしょうか。罪人である私たちのためでした。ヨハネからバプテスマを受けられたとき、すでにイエス様は、その苦しみを見つめておられました。自分のいのちを捨ててまで、罪人である私たちを救おうとされた神のあわれみに、私たちはどのように答えることができるでしょうか。 その答えは、やはりバプテスマの中にあります。イエスが死なれたのは私のためであることを信じ、罪の中に歩み続ける生活と決別したいとはっきり願い、聖霊によって新しく生まれ変わること。それが真のバプテスマです。儀式としてバプテスマを受けることよりも大切なのは、私たちが心を徹底的に砕かれて、ひたすら神のあわれみを求めること、そして救い主であるイエスを受け入れることです。ひとり一人が、その恵みにあずかりましょう。報 告1.み使いのたたえ歌うは誰(たれ)ぞ 羊飼いたちの 拝むは誰ぞ ああそは神の御子 イエス君なり ああそは主の主 君の君なり 2.むさき馬小屋に 生(あ)れしは誰ぞ 匠(たくみ)の子として 生れしは誰ぞ ああそは神の御子 イエス君なり ああそは主の主 君の君なり 3.黄金(こがね)に乳香 没薬持ちて 博士が拝みに 行(ゆ)きしは誰ぞ ああそは神の御子 イエス君なり ああそは主の主 君の君なり アーメン天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。 仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、 我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。 アーメン