恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2021.6.6主日礼拝説教「ナザレのイエス、その御名を」(使徒3:1-10)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。  私は主日礼拝の説教を、同じ原稿から計4回行っています。水曜日の事前録画、主日の第一~第三礼拝での説教です。ですから説教はかつて金・土曜日に重い気持ちで作っていたのですが、今は月曜日から火曜日にかけて作っています。重い気持ちは変わりありませんが。  第一礼拝は、比較的、原稿に忠実に語りますが、うまく伝わっていないかな?と思った表現などを第二礼拝で修正して語ります。逆に第二礼拝で、原稿にないことをアドリブで入れてしまい、残念な説教になることもあります。そして教会学校を挟んで第三礼拝に臨むのですが、体力的に疲れてしまっていて、だいぶ原稿をカットすることもあります。ただそれまでに三回語っていますので、逆に原稿に依存しない、またいい意味で力の抜けた説教が生まれることもあります。  今回ブログにアップロードした説教は、第三礼拝のものです。なんと第二礼拝で録画したSDカードをパソコンで読み取ろうとしたら、データが壊れていました。そこでYOUTUBEで流していた6時間以上のライブ配信をダウンロードし、そこから第三礼拝のメッセージ部分だけを抽出した次第です。なぜ第二礼拝のものではなく第三礼拝かというと、疲れている様子が説教に出ているかどうかを確認したかったというのがありますが、どんな風に映っているでしょうか?  第三礼拝に出席してくださっている方々からは「先生、お疲れですね」と声をかけられることがしばしばあるのですが、疲れがモロ説教に表れてしまっているとしたら、申し訳ないと思います。決して丈夫な体ではありませんが、「声が大きいのが取り柄」(妻・談)なので、マスク越しに今日も大きな声で叫んでいます。疲れた体を聖霊が立ち上がらせて最後まで語らせてください、と願いながら。週報はこちらです。 序.  2節をご覧ください。「すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。」 聖書の中に「運ぶ」という言葉は100回以上出て来ますが、生きている人間に対して使われている例はほとんどありません。 旧約聖書でも新約聖書でも、「運ぶ」という言葉はそのほとんどがモノか、かつて人間であったもの--人の亡骸に対して使われています。 しかしここに登場する物乞いを含め、体を動かすことのできない病人に対して、ごく少数の例ですが、「運ぶ」という言葉が使われています。  聖書の中でももっぱら死体に対してしか使わない「運ぶ」という言葉が、この足のきかない人に対して使われている意味は何でしょうか? 聖書を神のことばとして受け止めようとしない人々が言うように、聖書そのものが障がい者や性的少数者を差別しているということでしょうか? いいえ、違います。聖書が差別しているのではありません。人が差別をしている姿を、聖書はありのままに記しているのです。 確かに、聖書の中には現代から見ると、差別的な表現があります。しかしそれは聖書記者が差別意識に囚われていたのではありません。 神のかたちに似せて作られた尊い存在であるはずの人が、その障がいのゆえに差別される姿を、あえてありのままに記しているのです。 1.  彼は、生まれつき足がきかない人でした。ただそれだけでした。しかし彼は遺体を運ぶかのように、人々に運ばれ、門に立てかけられました。 それが彼自身の願いであったのか、それとも彼の意思を無視した、周りの人間による「配慮」であったのかはわかりません。 しかし明らかなのは、そのような生活を繰り返しているうちに、彼もまた目の前の人間を、生きた人間として見られなくなっていた、ということです。 彼は、神殿へと続いていく「美しの門」の前にいながら、神殿そのものには目を向けようとしません。 代わりに、祈りのために門をくぐっていく人間、祈りの後に門から出て、自分の前を通ろうとしている人間だけを見ています。 しかしその人間が祈りや礼拝を通してどのような恵みを期待し、どのような恵みを受けてきたかということには、彼はまったく興味がありません。 ただ目の前の自分に、金を投げてくれるかどうか。祈りや礼拝の効き目として、自分に金を恵んでくれるかどうか、それが彼の関心事です。 それは生きていると言えるのでしょうか。人を見ても、自分に益をもたらす者か、そうでないか、しか見ることのできない目。そして心。 この人が、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て施しを求めたことは、信仰とは言えないでしょう。 彼が求めたのは救いではなく施しです。 人生を変えるために求めたのではなく、今の生き方を続けていくために、いつものように施しを求めたにすぎません。 しかし彼にとっては、ペテロとヨハネは、他の通り過ぎる者たちと同じ、 運が良ければいくらかの金を恵んでくれる程度の者であったとしても、ペテロとヨハネにとっては違いました。 いや、二人にとって、というよりも、神にとっては違っていた、と言うべきかもしれません。  神は、この人を救いへと定めておられました。 毎日、午後三時の祈りに合わせて、門に運ばれ、また家へ運ばれていく生活をどれだけ繰り返してきたことでしょう。 しかし、今日この日、神はこの人をただ恵みによって救われる日として定めておられたのです。 2.  ペテロはヨハネと共にこの人を見つめて、こう言いました。「私たちを見なさい」。これは神が私たちを招かれるときの方法です。 神は、私たち一人ひとりを見つめます。決して汚らしい罪の塊ではなく、罪からきよめられて救いを受け取るべき存在として、見つめます。 そして私たちも、その神を見つめるとき、救いは生まれます。 神のことばを聞き、それを心に受け入れることは、まさにこの神と人とがお互いに見つめ合うということに他なりません。 ああ、しかしこの人は救いを求めて見つめているのではありません。彼は金銭か、何か品物をもらえると期待して、二人に目を注ぎました。 ペテロを通して、神の思いが現れます。 「あなたが私に何を期待しているか、わかっている。だが、あなたが期待しているものではなく、あなたが本当に必要としているものを与えよう。 ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。  「ナザレのイエス・キリスト」。その名前を、この生まれつき足の不自由な人が知っていたかはわかりません。 しかし知っていたか、知らなかったかはまったく問題にはなりません。「ナザレのイエス・キリスト」。その名前によって立ち上がり、歩け。 その言葉を聞いたときに、彼のからだから、今まで経験したこともない力が湧き上がってきたのです。 それは、立ち上がることのできなかった病人が、リハビリの中で力を振り絞って立ち上がろうとするのとはまったく違います。 生まれたばかりの子鹿が、母親の見つめるなかで、小さな四つ足を一生懸命伸ばして、立ち上がろうとするのとはまったく違います。 自分自身の力ではなく、まったく新しい力が、このイエス・キリストの名前によって、体の中からもうもうと湧き上がってくるのを感じました。 信じる、信じないという信仰の決断さえ必要としないほどに、それはこの人の体を圧倒的な、抗うことのできないほどの力で覆いました。 生まれたときから足が不自由で、走り方さえも知らないはずの人です。しかし喜びがわき上がり、跳ねずにはいられない。 くるぶしそのものがまるで第二の唇のように、神を喜びたたえる。そして唇そのものからも神への賛美があふれる。 今まで、すぐ目の前にいながら見上げようとしなかった、美しの門をくぐり、さらにその先の神殿へと、彼は二人と一緒に入っていきました。 3.  ここに書かれていることは、二千年前に起きたおとぎ話でしょうか。いいえ、これが教会が誕生してから初めて起きた、いやしの奇跡でした。 そしてこの出来事は、その後の二千年間の教会のわざそのものを表しています。 私たちが、このナザレのイエス・キリストの名前を通して願うこと、命じることは、必ず実現するのです。 この生まれつき足の不自由な人は、すべての人間の姿を表しています。彼は生きているのに、まるで死体のように運ばれる存在でした。 施しを受けることが生活のすべてであり、むなしさのなかを歩んでいました。神殿のすぐ前にいるのに、神殿を見ようとはしなかった。 私たちすべての人間が、生まれながらに抱えている罪のために、本当の喜びを見いだすことができずにむなしく生きている姿そのものなのです。 しかし、「ナザレのイエス・キリスト」、その名前を聞くことができたなら。あなたが救われてほしいという願いをもって、誰かが私に語ってくれたならば。私はその名前によって生きるのです。そしてこの体の内側から、私が持っているものとはまったく異なる力があふれるのです。  あなたもこの救いをいただきたいですか。 クリスチャンであっても、信じて救われたはずの生活に喜びを見いだすことができないのであれば、そのために今日のみことばが語られました。 イエス・キリスト。この御名は、私たちのすべての闇を飲み込み、踊りながら神の国へ飛び込んでいく人生へと変えてくださいます。 イエスと御霊を私たちに与えてくださった神は、私たちに、施しを待つ人生ではなく、救われた喜びを人に分け与える人生を願っておられます。 「ナザレのイエス・キリスト」。その御名を私たちが聞き、そして私の人生を永遠に変える名として受け入れるならば、今日、今から始まります。 決して揺れ動くことのない、幸いなる人生が。 イエス・キリスト。この御名を聞きましょう。イエス・キリスト。この御名を語りましょう。