恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2021.2.28主日礼拝説教「逃げ回って二千年」(ルカ23:1-12)

週報のPDF版はこちらです 1.  毎週、礼拝で使徒信条を唱えるとき、「教会が二千年間守り続けてきた、使徒信条を全員で唱和しましょう」と司会者がリードします。 初代教会の時代から、今日の時代に至るまで、クリスチャンは、毎週礼拝でこの使徒信条を告白し続けてきました。 ただ不思議なのは、「使徒信条」という名前の割りには、そこに出てくる名前は使徒ではなく、ポンテオ・ピラトであるということです。 私たちは先ほどこう告白しました。「主は、聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と。 主イエスに苦しみをなめさせた者、という意味では、ピラトよりもイスカリオテのユダのほうがよっぽどふさわしいようにも思えます。  なぜ使徒信条はこのポンテオ・ピラトの名前を入れて、それが代々の教会の礼拝の中で告白されてきたのでしょうか。 ある学者はその理由を、十字架が歴史的事実であることを証言するためだと説明します。 キリストの十字架は作り話ではない、ローマ総督ポンテオ・ピラトの時に起こった証拠として、使徒信条にピラトの名が刻まれたというのです。 しかしそれならば、総督のような中間管理職ではなく、ローマ皇帝ティベリウスのもとに、といった表現のほうがふさわしいようにも思います。 あるいは大祭司カヤパでも、国主ヘロデ・アンティパスでも、イスカリオテ・ユダでもよい、しかしなぜポンテオ・ピラトなのでしょうか。 私はこう考えています。それは、このピラトこそ、イエスを十字架につけた、私たちすべての人間を表しているからなのではないか、と。 彼の弱さは、私たちひとり一人が抱えている弱さです。そして今日の説教の目的は、私たちがその弱さに目を向けることにあります。  今日の箇所を見る限り、ピラトは決して、二千年間も毎週クリスチャンに告発されなければならないような極悪人には見えません。 むしろ彼が、イエスに対して最初に下した評価は、「この人には訴える理由が何も見つからない」でした。 ユダヤ人たちがイエスに対して作り上げた罪状の嘘くささを、彼は見抜いていました。彼はイエスが罪のない人だとわかっていました。 ピラトは、決して無能な男ではありませんでした。むしろ有能な役人であり、イエスが無実であることを確かに感じ取っていたのです。 しかし同時に、ユダヤ人たちがここまでなりふり構わず訴えてきたからには、対処を誤れば自分の立場が危うくなることも感じ取っていました。 彼は、一人で責任を負いたくなかった。だから「ガリラヤ」という言葉を聞いたとき、ガリラヤの領主であるヘロデを引き込もうとひらめきました。 ヘロデがこのイエスを調べて無罪にしようが、有罪にしようが、少なくとも自分がすべての責任を負うことは避けられる、と。 2.  責任という言葉を嫌がり、誰かの後ろに隠れようとする。それも、すべての人間が心に抱えている弱さです。 責任という言葉は、もともと聖書から生まれた言葉です。責任という日本語は、英語のレスポンシビリティという単語を訳したものですが、 これはレスポンス・アビリティ、訳すと、呼びかけに対して応答する力という意味です。 旧約聖書の創世記3章には、最初の人間アダムとエバが誘惑に負け、堕落したとき、神の呼びかけに答えられなくなった姿が描かれています。 つまり、神の招きに対して答えることが、責任という言葉の意味です。救われた者は責任を喜びますが、罪人は責任を嫌がります。 キリストと関わらない方が、世の中、楽に生きていけるでしょう。神の命令を貫くよりは、人にあわせて生きていった方が簡単です。 しかし永遠のいのちは、広い門から続く大通りにはありません。狭い門から始まり、様々な苦しみや痛みで満ちている小道に隠れているのです。私たちはどちらを選ぶべきでしょうか。ピラトのように一見友好的に見えるが、キリストとは距離を置こうとする生き方でしょうか。 それとも頑固者とも不器用とも言われようとも、人よりもイエス・キリストを第一としていっしょに歩んでいく茨の道でしょうか。  しかしピラトは知るべきでした。イエスがピラトのもとに連れてこられたことも、じつは神のご計画とあわれみの中にあったのだ、ということを。 奇跡を見たいと願っていたヘロデはイエスを喜んで迎え入れました。しかしイエスはヘロデに対しては何も、一言もお語りになりませんでした。 ヘロデは怒り、あきれ、配下の兵士たちと一緒になってイエスを侮辱し、からかい、派手な衣を着させてピラトのもとへ送り返しました。 しかしヘロデとは対照的に、イエスはピラトに対しては、いくつもことばを交わしていた姿が、他の福音書でも記されています。 もしピラトが、責任から逃げだすことではなく、このイエスという人物と会話を交わすことを選んでいたら、真理への扉が開かれたことでしょう。 しかしピラトは、与えられていた貴重な時間を無駄にしました。彼に与えられたのは、このことでヘロデとの関係が改善したくらいでした。 そしてその代わりにピラトは、手につかみかけていた救いの機会までも失ってしまったのです。 かかわりたくない、責任を持ちたくないと信仰の決断を先延ばしにしたピラト。ここにも、私たちがいるのです。 3.  しかし神に感謝すべきは、ピラトのような人間が使徒信条に二千年間刻まれてきたという事実です。 たとえピラトのような弱さを持っていたとしても、イエス・キリストを救い主と信じ、告白するならば、永遠のいのちが与えられるのです。 ピラトのように生きてきたとしても、神の前に己の生き方を悔い改め、キリストを受け入れるならば、すべての罪が赦され、さばきを免れるのです。キリストはピラトのために、そして私たちのために、そのいのちを捨てられたからです。キリストはピラトが認めたように、確かに罪のない方でした。 しかしにもかかわらず、私たちの罪を代わって引き受けるためにご自分から十字架に進んでかかっていった方、それがイエス・キリストです。  十字架は、肉体的にはもっとも苦痛を与える刑罰であり、霊的には神にのろわれた者とされる刑です。 イエスは、神のひとり子であったにもかかわらず、神に呪われた者として十字架に向かっていかれました。 何のために。私のために。あなたのために。あなたの隣にいる人のために。私たちの知らない、罪の中をさまよっている世の人々のために。 すべての人のために、イエスは死んでくださいました。ピラトが抱えていた弱さ、ヘロデが抱えていた愚かさは、すべての人に共通しています。 私たちは自分の罪のみにくさに涙しながらも、そのためにキリストが死んで下さった喜びを隠すことなく、この週も歩んでいきたいと願うのです。 キリストを信じて生きる人生は、責任から逃げ回る生き方ではなく、神が私を信頼し、任せてくださったという喜びに満ちた人生です。 そして日常生活での痛み苦しみも、主の十字架の苦しみを共有する恵みに変わります。そんな幸いな生き方をどうか受け取ってください。