恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2020.9.13主日礼拝説教「生きた信仰、死んだ信仰」(ルカ14:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。  今回の説教の導入にて、今から35年前に私が大学病院に入院していた頃の経験を記しています。 主治医のさらに上司にあたり、私の骨肉腫の執刀をされた教授に、何も聞かされないまま病室から連れ出されたこと、 気づいたら医学部の大講堂のようなところで、パンツ一丁で切断部位を披露させられたこと。 今では立派なハラスメントですが、当時(昭和)は「これくらい患者は我慢して当然」という、まさに「白い巨塔」の時代でした。  とはいえ古い記憶なので、あれが本当に大講堂だったのか自信がありません。 ただGoogleマップで確認すると、現在でも病棟から渡り廊下で教室棟が繋がっており、さらにその先には「大講義室」があるようです。 余談ですが、私の手術の際には三名の医学生が献血してくださり、母が「これで頭がよくなるね」と喜んでいたのを思い出します。 今でも鼻血を出すと、心なしか、少しアカデミックな香りがします。  くだんの教授は、退院後も数年間、年一回の定期検診の時に私を診てくださいました。 コワモテの方であり、先の殿中連れ回しの刑の経験もあったので、あまり心を開くことはできませんでしたが、 私が高校生になったときのこと、定期検診が終わった後にその教授がまた例によって、私を別の部屋に連れ出したことがありました。 トラウマがよみがえったのですが、今度は何もない小部屋でした。 そして回りにだれもいないことを確認すると、その教授が真剣にこう聞いてきたのです。 「あなた、敬和学園高校に入ったんだって?あそこはキリスト教の高校なんでしょ。 私はこんな人間だからアレなんだけど、息子はそういうところに入れてあげたいと思っているんだけど、実際どんな学校?」  大学病院の中で、教授の地位を勝ち取るためには、犠牲にしてきたものも多かったのでしょう。 しかしお子さんは出世や成績競争とは関係ない、自由な校風の中で学校生活を楽しんでほしい、という親の情愛を見ました。 だから、今でもその教授を恨んでいるというわけでは決してありませんので、どうぞお間違えなきように。 むしろ、その教授の執刀のおかげで、骨肉腫が肺に転移してもすぐに取り除くことができたわけで、私の命の恩人です。 とはいえ、もうあんな衆人環視の経験はこりごりですが。週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』14章1-6節 1.  私が中学生の時にある重い病気にかかり、左足の切断手術を行ったことは今まで何度も語っておりますが、これもその頃の話です。 私は当時、新潟大学の附属病院に入院しておりましたが、ある日、主治医のさらに上司にあたる教授に、病室を連れ出されました。 大学病院というところは、みなさんのなかでも行ったことがある方はわかるかもしれませんが、巨大な迷路のような作りになっています。 病室を連れ出され、入院患者立ち入り禁止と札がかかっている別の棟を通り抜け、その教授に促されて入ったところは、大きな教室でした。 医学生たちがすし詰めになって座っており、私を見つめています。そして教授は私をパンツ一丁にして中央の大きな机の上に横にさせ、 専門用語を使いながら、学生たちに何かを説明していました。恥ずかしくて顔から火が出そうでした。 実際には私が壇上で寝かせられていたのはせいぜい5分程度だったのでしょうが、まるで一時間以上に感じたことを覚えています。  今日の聖書に出て来る「水腫をわずらっている人」は、いったいどのような思いでイエス様の真っ正面に座っていたのでしょうか。 パリサイ人の食事会に招かれて光栄に感じたでしょうか。イエス様の真っ正面に座るという栄誉を与えられて感激していたでしょうか。 そんなわけがありません。水腫というのは、当時の社会では、神にのろわれた者であるとみなされていた、重い病気です。 パリサイ人が彼を食事に招くはずがない。彼は、いやされ、あわれまれるべき人間ではなく、イエスを罠にかけるための道具にすぎないのです。  私は自分が大講堂の中央の台に座るように促されたとき、イヤだと思いました。イヤだと言いたかった。でも言えませんでした。 そしてその夜、布団の中で泣いたことを思い出します。だれかに話を聞いてもらいたかった。嫌な思いをしたね、と言ってほしかった。 だからイエス様がこの水腫の人を抱いていやし、家に帰してくれたことは、まるでそのときの自分が抱きしめられたかのような嬉しさを感じます。 ここには、まことの救いがあります。傷ついた人を抱き、心もからだもいやし、平安が生み出されます。  しかし不思議なのは、どうしてパリサイ人たちは聖書をだれよりも学んでいながら、人の心の痛みがまるでわからないのか、ということです。 彼らは、水腫の人を道具として扱い、さらにはイエスが心傷ついた人をあわれまれるお方であるという、この事実そのものさえも利用します。 彼らは、主がこの水腫の人を必ずあわれんで、いやすということがわかっていました。そうすれば、安息日を破った現場を取り押さえられる。 そのように企んでいたからこそ、イエス・キリストの真っ正面に、この水腫の人をわざわざ座らせたのでありました。 2.  聖書は、たいへん恐ろしい力を秘めています。どんな人も救うことばであり、しかし使い方を誤ると人を盲目にしてしまいます。 「安息日にいっさいの仕事をしてはならない」。確かにこれは実際に、十戒の中で命じられています。 パリサイ人はこう考えていました。病人をいやすことも仕事にあたる。だから安息日に人をいやすことは罪であり、罪人はさばかれるべきである。 しかし彼らはこの安息日の命令を幼い頃から暗記しているのに、その背後にあるみこころを考えることをやめてしまっていました。 彼らにだれかが、なぜ安息日に一切の仕事をしてはならない、と神は命じたのか。と質問したとしましょう。彼らはきっとこう答えたでしょう。 そんなことはどうでもよい。ただ、神が命じられたことを行い、神が禁じられたことをしてはならない、それが人間にとってすべてである。  確かに彼らは律法を教えることに熱心でした。しかし律法の表面しか教えませんでした。 律法には、これをしなければならないという神の命令、またはこれをしてはならない、という禁止命令が記されています。 彼らは命令そのものは教えました。しかし肝心なことについては、考えることをやめてしまいました。なぜ神がそのみことばを命じられたのか。 一見厳しく思えるその命令の背後にはどのような神の愛、あわれみが隠されているのか。なぜ神はこれこれのことを禁じたのか。 聖書の行間、あるいは背後にある、神のみこころ、それこそが私たちに喜びを与える泉なのに、それを考えず、字面ばかりを教えたのです。  ある教会では、礼拝堂の入口に「礼拝厳守」という札がかかっています。ある訪問者が、牧師になぜ「礼拝厳守」なのかと聞きました。 「聖書にそう書いてあるからです」。しかしそれではパリサイ人と同じです。 なぜ礼拝を守るのか。「礼拝」という言葉は旧約聖書の中に43回、新約聖書の中に35回出て来ます。 その一つひとつをここで挙げることはできませんが、 その78回の「礼拝」という言葉の背後には、神の愛、あわれみ、人間の感謝、献身、賛美、さまざまなものが溢れているのは確かです。 「礼拝」という言葉が出てこなくても、礼拝について教えている聖書の箇所は、さらにたくさんあるでしょう。 そのような一つひとつを私たちは紐解きながら、礼拝について考えていくならば、礼拝の喜びは私たちの中で増え広がっていくことでしょう。 パリサイ人の信仰は、死せる信仰です。聖書がこう命じているからこれを行う、聖書が禁じているからこれはしない。 それは信仰的に見えますが、じつは聖書の字面を追い求めているだけであり、その背後にあるみこころの深さを彼らは考えませんでした。 命令の背後に、どのような神のご計画が隠れているのだろうか。禁止の背後に、どのような神のあわれみがこめられているのだろうか。 このみことばが、ことばとして語られた背後には、どのようなみこころがあるのだろうか。 3.  「言われたから守る」のは子どもです。しかし大人は、言われたからではなく、自分で考えて判断します。信仰の世界も同様です。 「自分で考えて判断する」ことは罪ではありません。人は自分で考えて判断し、神に従えば喜びがあり、神に逆らえば罪が生まれます。 事実、カルト宗教と呼ばれている多くの宗教団体に共通することは、信者に考えることをやめて、ただ従うことだけを求めます。 しかしイエス・キリストは違います。信じた者たちに自由を与えます。祈りの中で神に不平をもらすことさえも自由なのです。 イエス様は、安息日の本当の意味も示してくださいました。それは、神が定めてくださった、あわれみに生きる日なのだ、と。 神が私たちをあわれんでおられるように、私たちも自分の子ども、奴隷、家畜をあわれむことを通して、神の栄光を証しする。 イエス様は、私たち現代の読者にも通じる、聖書への正しい態度を教えてくださいました。 それは、神のことばの背後にこめられたみこころ、何が神に喜ばれることか、私たちが自分で考えて、実践していくということです。  イエス様は、いつもご自分の目の前にいる人々に、考えることを呼びかけています。それはパリサイ人に対しても例外ではありません。 5節、「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」 水腫をわずらった人もかけがえのない人でした。しかしイエス様は、パリサイ人さえもかけがえのない者たちとして、彼らに語りかけます。 あなたがたにも、かけがえのない息子がおり、家畜があるだろう。たとえ安息日でも、あなたがたは彼らを助けようとするだろう。 それならばどうして安息日にだれかを助けることがいけないことなのか、考えてごらん。 彼らは答えることができなかった、と最後に書かれています。しかし答えることができなかったという事実そのものがあわれみです。 先ほどまでイエスへの殺意だけに支配されていた彼らの心に、いまみことばがうずきを生じさせ、ことばが出なかったということだからです。 神のことばとは、なんとすばらしいのでしょうか。それは、どんな人の心をもつかみ、その人が求めるならば、答えを与えてくださるのです。 求道者の方は、あなたがいま聞いているイエス・キリストというお方について、自分で考え、判断し、選び取ってください。 そしてクリスチャンの方は、みことばを開くたびに、その背後にこめられている神のみこころを考えていきましょう。 あなたを選び、みことばによって喜びを与えてくださる神の恵みを、思う存分かみしめて歩んでいきましょう。