恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2020.8.9主日礼拝説教「さばきについての三つの誤解」(ルカ13:1-9)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。  実際の説教では割愛しましたが。今回の原稿の中で、17世紀の清教徒革命のエピソードが出て来ます。 清教徒革命と言えば革命軍の指導者クロムウェルが有名ですが、彼は軍事的天才でした。 それに対し革命を裏方として支えたジョン・ミルトンは思想的天才であったと言えるでしょう。 高校の世界史の授業で聞いた話ですが、チャールズ一世の処刑の際にミルトンはこう呟いたそうです。 「It's cruel, but necessary」(残酷だ、しかし必要だ)  しかし革命はその後、内部分裂により瓦解。国外逃亡していた王の息子チャールズ二世が帰国し、王政が復活します。 革命の担い手であった清教徒(ピューリタン)に対する迫害は激化し、彼らの一部は新天地を求めてアメリカへ脱出。 ここからピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれる、アメリカ建国物語が始まっていきます。 イギリス本国では、結局チャールズ二世も時代を見極められず国外に追放、名誉革命が成立しました。  教会の中にも、時として「Cruel」(ひどい)と言われるような、悲しいことが起こります。 牧師は傷つき、会衆はつまずき、信仰から離れてしまう。そういう例を牧会の事例のなかでいくつも見てきました。 しかしそれも、いつか必ず「necessary」(必要だった)と振り返ることができる時がやってきます。 悪を益と変える聖霊の働きを妨げるのは、見ても学ばず、経験に蓋をする、人間の事なかれ主義にあります。 牧師は祭司であると同時に預言者であり続けなければなりません。そしてさばきは神の家から始まります。 いまキリスト教会の中に世俗化の風潮はないでしょうか。牧師自身が自己批判の視線を失ってはならないと思わされます。 週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』13章1-9節 1.  イエス様は、集まって来た群衆に対して、さばきはすぐそこまで近づいているのだから、悔い改めなさいと語ってこられました。 しかし人々は、イエス様が教える「さばき」について、正しく理解していませんでした。 彼らにとって「さばき」とは、罪深い、悪人だけに下るものであり、自分には関係ないものだと決めつけていたのです。 ちょうどそのときです。ピラトがガリラヤ人たちの血を、彼らがささげるいけにえに混ぜた、という知らせによって、今日の物語は幕を開きます。 ガリラヤ人とは、イエス様や弟子たちの出身地であるガリラヤ地方の人々のこと、そしてピラトとは当時のローマ総督ポンテオ・ピラトのことです。 彼は実際に紀元26年から36年までの10年間、ローマ帝国からユダヤに派遣された総督として、歴史書の中にも名前を残しています。 しかし彼はユダヤ人の信仰や歴史についてまったく無頓着だったため、やがて最後には総督を解任され、失意の中、なくなりました。 ピラトの最初の失敗は、エルサレム神殿にローマ皇帝の像を運び入れようとして、ユダヤ人からの敵意を買ったことが知られています。 また神殿への献金を、土木工事に流用し、それに反対したユダヤ人たちのところへ軍隊を派遣して、多くの死傷者を出したこともありました。 今日の箇所にある、彼がガリラヤ人たちの血をそのささげるいけにえに混ぜた、という事件は、どの歴史書にも記録されていません。 しかしこのガリラヤ人が神殿の中で殺されたのは確かです。民がいけにえをささげることができたのは、神殿の中に限られていたからです。  ユダヤの民であるガリラヤ人たちが神殿の中で殺された。神殿が汚された。ユダヤ人全体の怒りをかき立てる出来事であるはずです。 しかしイエス様は報告者たちの心を見抜いておられました。この人々に対する、イエスさまの問いかけがその証拠です。 2節をご覧ください。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。」 イエス様にはわかっていたのです。この報告者たちにとって、神殿が、無実のガリラヤ人たちの血で汚されたことはどうでもよいことでした。 彼らの関心は、このガリラヤ人たちが特別に罪深い者だったから、このような最後を迎えたのだ、しかし自分たちは違う、というものでした。 イエスの話を聞いていた群衆も、この報告者たちも同じでした。他人の不幸に対して、神のさばきだと見下します。 その一方で、イエス様が語られる、すべての人にくだるであろうさばきを、自分だけは大丈夫だと過信しています。 しかしイエス様ははっきりと警告されました。罪のさばきは、この世のすべての人にくだるのだ。 そのガリラヤ人たちや、エルサレムのシロアムの塔で事故死した者たちだけが、特別、さばきを受ける罪人であったのではない。 ガリラヤ人であろうが、エルサレムの住民であろうが、自分の罪を悔い改めることから逃げ続けるならば、みな同じように滅びるのだ、と。 2.  私たちの生活、また社会には、不慮の事故や、病、死、天災のような、不幸としか思えないような出来事が起こります。 しかしそれ自体が、神のさばきではありません。むしろ、それらは不幸に見えていても、それに直面した者にとって人生の転機になります。 神を信じていなかった人にとっては、その不幸な出来事は、永遠の滅びがやって来る前にそのことを気づかせるための警告となります。 すでに神を信じている者にとっては、信仰をさらに強めるための訓練、あるいは心から悔い改めて神との関係を取り戻すための試練となります。 神は、すべての人が救われることを願っておられます。だから、最後の滅びが訪れる前に、何とかして私たちが気づくように、と、 今までの人生観が揺らぐような出来事を与えられるのです。それは一見、不幸な事柄のように見えるかもしれません。 しかし私たちがそれを通して、生き方を顧み、神と和解し、より神に近づくための機会に用いるならば、それは良きものとなるのです。  17世紀のイギリスに、ジョン・ミルトンという詩人がいました。 当時イギリスでは国王による政治の私物化、政治腐敗が頂点に達し、国王を追放して共和制にする動きが起こっていました。 ミルトンも、文学の才能を生かして革命軍に陰に日向に協力しました。そのかいあって、革命軍は国王軍を打ち破るに至りました。 国王チャールズ一世は捕らえられて、広場の上でひざまずかせられ、首を剣で切られて処刑されたそうです。 しかし革命軍はどんどん過激になり、やがて国民の支持が離れていきます。ミルトンも革命軍から追い出され、革命は失敗しました。 失意の中にあったミルトンに追い打ちをかけるような出来事が起こります。彼は原因不明の病により、両目が見えなくなってしまったのです。 そんなある日、ミルトンは宮殿に呼び出されました。王座に座るのはチャールズ二世、ミルトンたちが処刑したチャールズ一世の息子です。 王は両目の塞がったミルトンに対して、冷たくこう言い放ちました。「なぜおまえから両目の光が失われたのか、わかるか。 神がこのイギリスを治めるために選ばれた我が父を王座から引き下ろし、斬首した恥辱を与えたおまえの罪に、神が報いを与えられたからだ」。 しかしそのときミルトンは、光を失った両目を、王座に向けながらこう答えたと言います。 「王よ、私が両目の光を失ったのが神からの報いであると言うそのことばは、お父上をも愚弄するものです。 私の罪の報いがこの両目であるとすれば、あなたのお父上がその首を失ったのは、どれほど大きな罪への報いでありましょうか」。  突然の病や死、障害は、決して神のさばきではありません。ミルトンの偉大な作品は、盲目になってから作られたものばかりです。 病や困難に絶望して人生を悲観し、自ら命を絶つ人々が後を絶ちません。 しかし病や困難に出会ったことではじめて人生の喜びと充実を得た方々のほうが、それらの人々よりもずっと多いのです。 私たちが突然の病や不慮の事故、身内の死、それらに直面したとしても、 神はそれらを通して、私たちの狭い視界を広げてくださり、イエス・キリストにある新しいいのちを与えてくださるのです。 3.  だからこそ私たちは、大いなるさばきの日が来る前に罪を悔い改め、神が与えてくださった機会を無駄にしてはなりません。 このことを改めて強調するために、イエス様は「実のならないいちじくの木のたとえ」を語られました。 なぜぶどう園なのにいちじくの木が植えられたのでしょうか。いちじくは、イスラエルにおいては終末を象徴する植物であったからです。 いちじくは、新発田市の特産品のひとつで、新発田銘菓にはいちじくパイ、いちじく羊羹、いちじくもち、のしいちじくとたくさんありますが、 園芸家のあいだでは、植えてすぐに実を結ぶ果樹として知られており、早ければ2年、遅くとも3年あれば豊かな実を結ぶそうです。 ここで主人が「三年」と言っているのは、植えてから三年ではなく、実を結ぶ時期を迎えてから三年ということなので、実際には六、七年でしょう。 いちじくは、根を地下に広く伸ばす果樹としても知られており、実を結ばないいちじくは、まさに土地をふさぐ無用の長物と成り果てます。 しかしぶどう園の番人は、いちじくを切り倒すことを一年間待ってほしい、と主人に懇願しました。 イエス様がこのたとえ話で語ろうとした「主人」と「番人」は、それぞれが同じ神の、正義とあわれみというふたつのご性質を表しています。 神の正義は、終末が近づいているのがこれほど明らかなのに、罪を悔い改めて生き方を変えようとしない、あらゆる人間を例外なくさばきます。 しかし神の愛は、救われる人がひとりでも起こされるように、忍耐をもって、切り倒す時を延ばしておられます。 決して神が分裂した性質を持っているということではありません。この正義と愛が一つの所で出会う、それがイエス・キリストの十字架なのです。 私たちの罪をすべてイエスは十字架で身代わりとなり、ご自分がさばきを引き受けてくださいました。 しかしそれでもなお信じず、悔い改めようとしないならば、いちじくの木は切り倒されてしまいます。  このたとえ話は、あえて未完結の物語として終えます。 それを完成させるのは、私たちひとり一人が、神の言葉に対してどのように応答して生きるかにかかっています。 まだイエスを信じていない者は、悔い改めていのちを得てください。 そしてすでにキリストを信じた者は、ただこの方だけをしっかりと見上げながら、終わりの日に備えて、一日一日を大事に生きてください。