恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2020.5.17「あなたはわたしに従いなさい」(ヨハネ21:18-25)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。  最近、「荷下ろしうつ病」ということばを聞きました。 てっきり、配達業者のドライバーさんなどが忙しすぎてなってしまうものかと思いましたが、そうではないようです。 「コロナうつ病」が出口の見えない自粛生活の中で情報過多により心がまいってしまうものであるのに対し、 この「荷下ろしうつ病」は出口が見えたからこそ陥ってしまう、一種の燃え尽き症候群のようなものみたいです。 以下はFNNのニュースサイトの記事「緊急事態宣言解除でも安心できない…今度は「荷おろしうつ病」に注意!」からの引用です。 
 「荷おろしうつ病」になる方というのは、極端に考えやすいところがあります。頑張るときは誰よりも頑張ろうとして、自粛するときも一歩も外に出ないという気持ちで生活します。それが解除されると、張りつめていた気持ちが切れてしまって、がくっと調子をくずしてしまいます。実際の生活はそんな急に変わるわけではなく、すぐに全てのお店に行けるわけでも、急に飲み会をするわけでも、在宅勤務の人が全員オフィスワーカーに戻るわけでもないでしょう。また第2波がくるという予想もあります。自粛が解除されたからといって、いきなり以前の生活に戻るわけではないのですが、その変化を急な「崖」のように感じてしまうとどうしても耐えきれなくなってしまうのです。いきなり元の生活に戻す必要はないので、「崖」ではなくグラデーションのように、徐々に元の生活に戻せばいいんだと認識していただくことが大事なポイントだと思います。これからは、まったく「大丈夫」だと考えるのも良くない面があり、逆に大変な日々が続くと考えすぎるのもよくありません。その間のほどほどのラインで心身の健康を保っていただくというのが大切なポイントだと思います。
(談 ワーカーズクリニック銀座院長・石澤哲郎医師)
私たちの教会では、緊急事態宣言の一応の目安であった5/31(日)までオンライン礼拝の形を取っています。 しかしその次の週からすぐに30人規模での礼拝を再開するのは難しいと考えています。 近日中に役員で話し合い(三密にならないように十分に気をつけます)対応を検討しますが、 最低1メートルの距離を保つという「新しい生活様式」を守るならば、15人がキャパの限度でしょうか。 一日に数回、礼拝を行うという対応の場合、10:30以外の礼拝時間に回ってもらう方には負担を強いることになります。 あるいはオンライン礼拝を継続しながら、2~3週間に一度、教会でのリアル礼拝に参加、ということも考えられます。 しばらくはどの教会も完全な原状回復は難しいでしょう。まさに「崖ではなくグラデーション」のように徐々に踏み出していきましょう。 新しい生活様式ならぬ「新しい信仰(教会)様式」がこれから生み出されていくのかもしれませんね。 みことばを第一とするのは当然ですが、柔軟に対応していきたいと思います。週報はこちらです。 聖書箇所 『ヨハネの福音書』21章18-25節 1.  5月は今日も含めて三週にわたり、この礼拝説教の中で、イエス様がペテロの傷ついた心を取り扱ってくださった姿を学んできました。 過去のどんな失敗や古傷であっても、イエス様に触れられるならば、それは今の私たちを生かすものへと変えられていきます。 過去を変えることはできない、とよく言われます。そのとおりです。 しかしイエス様が過去に触れてくださるとき、事実は変わらなくても、意味づけが変わっていくのです。 ペテロのあらゆる痛みに、イエス様は触れてくださいました。ガリラヤ湖が朝の光を受けて輝いています。 イエス様ご自身が用意してくださったパンと焼けた魚のかぐわしい香りが風に乗ってあたりに広がっています。 ペテロだけではなく、その場に居合わせた弟子たちの心も、今までの痛みが包まれていく幸せを感じたことでしょう。  ところが次の瞬間、イエスさまの唇からは、その場の幸いな空気をうち壊すような言葉が飛び出したのです。どんな言葉でしょうか。 「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。 しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」。 「自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせる」という言葉は、彼が捕らえられて、後ろ手に縛られて投獄されることを表しています。 ペテロがやがて、何ものかに捕らえられ、縛られ、殺される、いわゆる殉教者として死を迎えることをイエス様は予告されました。 2.  この言葉に対して、ペテロや他の弟子たちが何を思ったのか、どんな反応を示したのか、聖書は一切記していません。 そしてこの福音書を記したヨハネは、私たち読者が、続く一つの言葉に注目することを期待しています。「わたしに従いなさい」と。 この言葉に至るまでに、イエス様はペテロに三度も聞かれたのは、「わたしを愛しますか」という問いでした。 それに対して、ペテロは、三度自分がイエスを知らないと言ってしまった過去の傷を見つめつつ、 「はい、主よ、私があなたを愛することはあなたがご存じです」と、変わることなく、答えました。 イエス様はペテロのその言葉に満足されました。だからこそ、彼の最後の姿をこうしてはっきりと予告されました。  私たちもイエス様を愛しています。 イエス様を愛する者は、イエス様に従います。イエス様に従う者は、イエス様の死に様を恥とは思いません。 イエス様は、十字架の上で嘲られ、ののしられ、ぼろぞうきんのようにみなされて、殺されました。 そして私たち、イエスを愛し、信じる者は、たとえ自分の生涯が、最後どんなみじめな終わり方であったとしても、後悔はありません。 ペテロがどんなにみじめな死に様であったとしても、彼はその死を通して、神の栄光を表したと聖書ははっきりと記しているのです。 イエス様はペテロに力強く命じました。「わたしに従いなさい」。それはペテロだけへの命令ではありません。 主はあなた自身に向かって言われています。「わたしに従いなさい」。 たとえあなたの人生の終わりがどのようなものであったとしても、あなたがなすべきことはただひとつ、「わたしに従うこと」だけだ、と。 3.  でも、人は弱いものです。従いたいと願いながら、ついイエス様から目を離してしまう弱さを持っています。 ペテロも同じでした。「私に従いなさい」という、イエス様のまっすぐな瞳から、彼は視線をそらせてしまいます。 視線をそらせた先に彼の目に飛び込んできたのは、何だったでしょうか。 イエスが愛された弟子、すなわちヨハネの姿でした。ペテロは主に尋ねました。「主よ。この人はどうですか」。  『ヘブル人への手紙』12章2節にはこうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」。 私たちがイエスから目を離し、他のものを見つめてしまうとき、信仰の恵みは私たちの両手からこぼれ落ちていきます。 ずっとイエス様を見つめることができたらどんなによいか。でもそれができない。さっきまでのペテロは自分の失敗に目をとめていました。 そしてイエス様が彼を受け入れてくださったのも束の間、今度は他の人に目をとめてしまいます。私たちも同じです。 自分の欠点に目をとめ、他人に目をとめ、周りの環境に目をとめる。目をとめるだけでなく、それをさばき、批判し、否定する。  しかしイエス様は、ペテロ、そして私たちにこう言われます。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と。 他人を見て、その言動をさばく者は、実際の所、他人ではなく自分の人生から、貴重な時間や喜びを奪っているのです。 イエス様が求めていることは「わたしから目をそらさないでいなさい」ということです。 イエス・キリストから目を離さないでください。そうすれば、自分の欠点も、他人の欠けも、私たちの中で溶けて消えていきます。 結.  私たちは与えられた人生も賜物も違います。しかし与えられたものを生かして、神の栄光を表していくことに関しては違いがありません。 他の人の信仰をまねたりうらやんだりする必要はないのです。私たちが見つめるべき方は、ただイエス・キリストだけです。 イエス様はペテロに、そして私たち、すべての弟子たちに今日も呼びかけておられます。「あなたは、わたしに従いなさい」。 この世界の先に、いったい何が待ち受けているのかわかりません。しかし、私たちはただ、イエス様に従うことを心に決めていきましょう。 イエス様に従うということは、イエス様から目を離さず、その後ろについていくということです。 これからの一週間も、一人ひとりの歩みが守られますように、お祈りをさせていただきます。