恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2020.4.26「よくなりたいか」(ヨハネ5:1-9a)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。  先日4/26の礼拝は、初めての完全オンライン礼拝でした。 教会員30名を、世帯別に計算すると、約20世帯。そのうち、ネット視聴可と不可の割合は半々くらいです。 どのくらいの方が礼拝をリアルタイムで視聴(出席)していたのか。Googleアナリティクスの出番です。 4/26のレポートはこうなっていました。ただし視聴率の調査と同じようなもので、過度の信頼は禁物です。 analytics0426.png<PDF版はこちら> これを見ると、10時台の訪問者数が約20名、ピークを形成しています。 これが11時台になると半減していますが、教会員が礼拝視聴を途中でやめてしまったということではないと思います。 一日のユーザーが45人というのは少ないですが、それはこれからの課題ということで。 新規ユーザーが45人中26人もいるんですが、 直帰率(検索などでブログにたどりついたが直ぐに閉じてしまう率)も41%ですので、新規の7割が直帰です。 それでもその新規の残りの方が別のページも読み、そこでメッセージが少しでも目に入ったということがあるかもしれません。 そういうわずかな可能性にかけながら、ブログを運営しています。5/3はもう少し増えたらいいですね。  ところで、緊急事態宣言が延長される可能性が出て来ましたが、現在の情報では5/4に発表されるそうです。 5/10までは礼拝その他の集会を自粛することになっていますが、その後のことは役員で話し合って決定します。 5月も聖餐式はできませんでした。 教団からはオンラインでの聖餐式は、未受洗者に陪餐する(?)可能性があるので控えるようにという通達が来ています。 聖餐は仕方がないですが、また自粛期間が長引くと、オンライン祈祷会はもちろんのこと、オンライン愛餐会も考えるべきかもしれません。 巷では「オンライン飲み会」もあるそうなので、愛餐会もいけるかと思いますが、ネットに繋げないと参加できないという欠点もありますね。 初めてのことばかりで牧会者もどうしてよいかわからないこともたくさんあります。ひとつひとつ、誠実に対応していかなければと思います。 週報はこちらです。 聖書箇所 『ヨハネの福音書』5章1-9節a 1.  新型コロナウイルスの世界的大流行のなか、主日礼拝も、それぞれが自宅待機の中で守らせていただくことになりました。 パソコンやスマートフォンでインターネットの中継、あるいはあらかじめ録音したCDなど、それぞれのかたちでみことばを聞いてください。 まず、2節から3節をお読みします。 「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた」。  なぜそんなにたくさんの人々がこの池の回りに集まっていたのでしょうか。 それは、このベテスダの池には、天使がときどき水を動かし、その後で最初に入った者はどんな病気でもいやされると噂されていたからでした。 それがただの噂か、それとも真実かは人々にとって重要なことではありません。 たとえただの噂だとしても、そのわずかな希望にすがりつかなければ生きていけない。希望というにはあまりにもはかない希望です。 しかし人々はわらをもつかむ思いでこの池に集まって来ました。いや、むしろ運ばれてきた、と言ったほうがよいかもしれません。。 伏せっていた、と書いてあるように、いつ来るかわからない、水が動く時をひたすら待ち続けます。 そして何日ごとか、何週間か、それとも何ヶ月か、あるとき突如として水が動く。 ある者は水面めざしてのろのろとはいまわっていく。ある者は身内に担がれ、ある者は金で雇った者たちに担がれながら。 病人、目の見えない人、歩けない人、やせおとろえた人、ありとあらゆる人々が、金切り声をあげながら、押しのけながら、池の中へと。 このような光景は、決して二千年前のものでしょうか。いや、私たちが生きているこの世界、人生そのものではないでしょうか。 2.  ここで物語はひとりの人に向けられていきます。5節をご覧ください。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」。 38年間、病に苦しみ続けた人の気持ちは、想像もつきません。 しかしイエス様が今、彼に目を注がれました。そして言われました。「よくなりたいか」。 何ということを尋ねるのだろうかと思います。38年間も病に苦しみ続けて、よくなりたくないわけがない。 しかし次のことばが、この人の心の中はそんなに単純なものではないことを表しています。 「主よ、私には水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです」。  私には、私を入れてくれる人がいない。ほかの人にはいるのに、私にはいない。私は不幸だ。38年間、彼は病に耐えてきました。 しかしその経験は他人と自分を比べて、自分をあわれみ、立ち上がることを忘れさせてしまったのです。 目の前で人々が水へ入っていくのをただ眺めるしかできない日々。それでも決してその場を離れようとしなかった。 それは、いつかは自分も、という希望があったからではなく、他に行き場所がなかったから。 彼が、よくなりたいという率直な思いさえも忘れ、他人との比較の中でしか生きられなくなっていることを、イエス様は知っておられました。  8節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」 イエス・キリストは、長ったらしい慰めは語りません。ただ一つの力ある言葉だけで、現実を一瞬に変えるのです。 キリストは、ただひとつの言葉だけで嵐を静めます。ただひとつの言葉だけで死んだ者を生き返らせることもされました。 直りたい、しかし直るわけがないというあきらめを、人と自分を比べることで38年間ごまかしてきた、この人をも、ひとつの言葉で変えたのです。 3.  9節、「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」。 38年間伏せっていた人も、イエスの言葉によって、一瞬で人生が変わりました。救いとは、それを経験することです。 そして私たちは、それを経験し、今も経験し続けているのです。だから私たちは決して失望することはありません。 いま、あなたはかつて経験したことのないような不安の中にあるかもしれません。しかし決して恐れる必要はありません。 神のことばはすべてを変えるのです。直ちに、そして確実に、すべてを変えるのです。この神のことばを、心の中に取り入れ続けてください。 神のことばは、神の約束です。そして神は約束をたがえることがありません。いま、あなたの心にイエスは語りかけておられます。 わたしはあなたを見ている、あなたの苦しみを知っている、今すでに、あなたにもっとも必要な助けを用意しているのだよ、と。 神のことばのすばらしさをかみしめながら、この一週間、一人ひとりが歩んでまいりましょう。