恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2019.12.22「あなたのために神が捨てたもの」(ルカ2:1-12、ピリピ2:6-8)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 あと3日で2019年も終わりです。今年も年賀状は出さずじまいでした。 そしてクリスマスカードも出すのを忘れていました。送ってくださった教会や個人の方に感謝です。 長野県のKさんから、受洗の報告をいただきました。ご無沙汰しております。これからの信仰生活が祝福されますように。 2020年はどんな年になるのでしょうか。 今年辛いことばかりだった方々にとって、振り返って感謝に変わる年になりますようにと祈ります。 週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』2章1-12節、『ピリピ人への手紙』2章6-8節 1.  クリスマスおめでとうございます。クリスマスの意味はよく知らなくても、どこかおめでたい気分にさせてくれるのがクリスマスです。 私は仏教徒の家庭に生まれましたので、教会には行っていませんでしたが、クリスマスだけはきちっとお祝いさせていただいておりました。 12月24日の夜になると、七面鳥ならぬ鳥の唐揚げと、ヤマザキのクリスマスケーキ、そしてシャンメリーというシャンパンもどきが必ず出ました。 このシャンメリー、シャンパンと違ってアルコールは入っていないので子どもでも飲めるのですが、炭酸だけはものすごく強い。 びんのフタをタオルで押さえながらちょっとずつひねっていくと、突然威勢良く飛んで行くという、 たいへんおめでたさを感じさせる飲み物でした。 シャンメリーの注意書きには、フタを人に向けないでくださいと書いてあるのですが、 当時、家族四人ですごく狭いアパートに住んでいまして、 コタツを真ん中に置いて家族四人が座ると足の踏み場もないという茶の間でした。 そんな狭さなので、人がいないところは天井しかありません。 で、天井に向かって開けると、天井も低いので、電灯が割れそうになったりとか、 跳ね返ったふたが当たって、飾っていた置物がこわれたりとか、茶の間が射的の屋台みたいになっていました。 まあ楽しいと言えば楽しかったですが。  よく考えてみたら、そこまで家財道具に気を使ってまでシャンメリーを買ってくる必要はないと思うのですが、 どうやらうちの母はメリークリスマスのメリーはシャンメリーのメリーだと思っていたようなので、きっと外せないアイテムだったのでしょう。 2.  我が家のクリスマスは、必ず何かがこわれて、そして新しくプレゼントがもらえる、というのがお約束でした。 これは教会のクリスマスとは一切関係のない我が家オリジナルのおきてでしたが、じつは実際のクリスマスの意味に近いものがあります。 クリスマス、それは神様が、あらゆる人々に永遠のいのちというプレゼントを与えるために、この世界に降りてきてくださった日です。 しかしこのとっておきのプレゼントを与える前に、神様は捨てなければならないものがあったのだ、ということを聖書は教えています。 それは何でしょうか。それは、神としてのお姿です。 人の目に見えないほどに、きよさに溢れたお方が、その姿を捨てなければなりませんでした。聖書の中に、こういう言葉があります。 「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2:6,7)  キリストという言葉は救い主という意味です。キリストという言葉を聞くと、すぐにイエス・キリストをイメージするかもしれませんが、 キリスト、救い主は、この世界を無から造られた神ご自身です。罪にまみれた人間の目には見えません。永遠で、無限なるお方です。 キリストは、私たちを作ってくださった方であるからこそ、誰よりも、私たちの生きる苦しみを知っておられます。 その苦しみを高い所から眺めていることはできず、神としてのあり方を捨ててまで、この世界に救いを与えるために下ってきてくださいました。 だから私たちはクリスマスをお祝いします。それは、二千年前のこのクリスマスの日、キリストが人間となってこの世界に来てくださったからです。  永遠無限、そしてただおひとり、本当の神であるキリストは、二千年前のこのクリスマスの日、人間イエスとして生まれてきてくださいました。 キリストは、処女マリヤのお腹の中に、超自然的な奇跡によって人として宿りました。 そしてマリヤと、その婚約者であるヨセフが住民登録のためにベツレヘムという故郷の町の、家畜小屋でお生まれになりました。 貧しい夫婦のあいだに、ろうそくの光も温かい産湯も用意されていない小屋の、家畜のえさを入れる飼い葉桶の中に寝かされた、イエス様。 それは、私たち、あらゆる人間の罪と苦しみを背負うために、神としての栄光を捨てて、すべての苦しみを引き受けた救い主の出発点でした。 イエス・キリストの三十数年の地上での生涯は、何も報われることのないものでした。弟子に裏切られ、親族からは狂人扱いされました。 そして最後に待ち受けていたものは、十字架で犯罪人として殺されるというものでした。 神が捨てたものは、天での神としてのあり方だけではありません。私たちのために、ご自分のいのちをも捨ててくださいました。 3.  クリスマスは、おめでたい話をするべきかもしれません。 しかしうちではプレゼントをもらう前に、シャンメリーのふたにぶつかって何かこわれていました。 もしかしたら、教会に行ったことがなかった私が、教会に行ったときにクリスマスのお話しがわかるように、その体験があったのかもしれません。 こわさなければ、いただけないものがあります。 私たちの今までの生き方を壊さなければ、キリストが与えてくださる新しい生き方をいただけません。 聖書では、その古い生き方を罪と呼び、新しい生き方を救いと呼びます。それはこの世だけのものではなく、永遠に続くものです。 私たちの罪を、イエスは十字架ですべて背負って殺されました。神としてのあり方を捨てただけでなく、人としてのこれからも捨てました。 十字架で殺されるべきは、本来私たちでありました。十字架にかかるべきは、本来私たちでありました。 しかしこのイエス・キリストが十字架で私のために死んでくださったと信じる者は、例外なく罪を赦されて、永遠のいのちをいただけるのです。 すべては、このクリスマスから始まりました。それは十字架へと続き、私たちが死んでも生きる、永遠のいのちへと繋がっています。  クリスマスは、おめでたい話が似合います。それは、このイエスを信じるならば、あなたは救われるというメッセージです。 しかしそのためには、自分自身が罪人であり、救いを必要としている者であることを受け入れなければなりません。 すべての人が救われるために、イエス・キリストは人として生まれ、十字架で死んでくださいました。 私も、このイエス・キリストを信じて、初めて生きる喜びを知りました。 どうかみなさんも、神が望んでおられる本当の喜びを知っていただけたらうれしいです。