恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2019.10.27「たとえ受け入れなくても」(ルカ9:51-56)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

ごめん。ブログのことをすっかり忘れていました。数えたら12日ぶりの更新ですね。

しかも礼拝メッセージも一週間ずれていますが、近いうちに更新します。

ちなみに十日以上過ぎていますが、10/27は私の誕生日です。はっぴば~すでぇ、お~れ~。むなしい。

 忙しすぎて、誕生日アピールも忘れていました。教会員は少ないのになんでこんなに忙しいんだろ。

頼まれると断れない性格だからかな。いや、地方の小さな教会にとっての宣教、それはすなわち人脈作り。

18年間牧会している中で、ナントカ委員という肩書きが山ほどできてしまって、クビが回りません。

 しかしブログは続けますよ!更新は忘れてたけど。7年間でコメント25件だって、めげません。

ええ、めげませんとも。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章51-56節

1.

 今日、イエス様を受け入れなかったサマリヤ人とは、イスラエルの国土の中央に走る、サマリヤ地方に住んでいた人々のことを指します。

彼らは、イエス様の時代から約700年前、北イスラエル王国が当時の世界帝国アッシリヤによって滅ぼされたとき、

残されたわずかなユダヤ人と、外国から連れてこられた人々が混血によって生みだされた人々でした。

700年経っても彼らは、純粋なユダヤ人から差別され続け、サマリヤはイスラエルのど真ん中にある重要な地域であるにもかかわらず、

ユダヤ人たちは緊急の用事でなければ決してサマリヤを通らなかったし、その際でもいっさいサマリヤ人には話しかけることはありませんでした。

 しかしイエス様は、そのサマリヤの町を通っていかれようとしました。それがエルサレムへの近道だったからではありません。

エルサレム、すなわち十字架で死なれることは、ユダヤ人だけでなく、サマリヤ人にとっても、救いへの道を開くことだったからです。

ルカは、イエス様が御顔をエルレサムにまっすぐ向けられていた、と二回も繰り返しています。

エルサレムが目標だったのではありません。エレサレムに待ち受けている十字架が目標でした。

ユダヤ人、サマリヤ人、民族に関係なく、どんな人でも救うことのできる十字架への道を、イエスはまっすぐ見据えながら、進んでおられました。

しかしサマリヤ人たちは、そのイエス様を受け入れようとしなかったのです。

聖書は、その理由を次のようにはっきりと書いています。それは、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたからだ、と。

2.

 敵意は人の目を歪ませます。妬みは真実から人を遠ざけます。

サマリヤ人は、御顔をまっすぐにエルサレムに向けておられたイエスの姿を、自分たちをないがしろにしていると誤解しました。

しかしこれは不幸な事故ではありません。生まれつきの人間だれもが持っている、敵意やねたみが引き起こす、当然の姿です。

私たちはこのことから次のことを心に刻まねばなりません。神のみこころを行うとき、そこには必ず誤解と敵意が起こるのです。

教会は、いつの時代でも、キリストが人々のために仕える者となったように、世の人々に仕えることを大切にしてきました。

私たちが、教会の外の人々に仕えることを忘れてしまえば、信仰は内向きになってしまうでしょう。

礼拝は名ばかりのものとなり、愛し合うと言っても、会堂の中に信者だけの世界を作ることで満足する結果になってしまうでしょう。

 しかし忘れていけないことは、世の人々に仕えるということは、世の人々に喜ばれることとは違う。むしろ逆だということです。

もし教会の活動が、簡単に世の人々に喜ばれるものであるとすれば、私は誤解されることを恐れずにはっきりと言いますが、

それは世の人々の内面に、敵意や誤解や痛みも引き起こすことのない、薄っぺらなものにしかなっていない、ということです。

クリスチャンの働きが、神のみこころにかなっているかを知るバロメータは、人々に喜んでもらえるかどうかではありません。

たいへん目を背けたくなる話かもしれませんが、聖書は、生まれつきの人間を手放しでほめたたえてはおりません。

むしろあらゆる人間は、すでに罪を背負った者として生まれているために、感情、視野、考えにおいてすべからく的外れな者になったと言います。

つまり、人々が求めている喜びと、神が与えようとしている喜びの間には、信じがたいことかもしれませんが、はじめからすれ違っているのです。

 クリスチャンが、世に迎合するのではなく、信仰に立って世の中の人々に仕えようとするとき、まず起こる反応は何でしょうか。

感謝よりも敵意です。賛同よりも誤解です。喜びよりも妬みです。これを私たちは、信仰者の先輩方からの生き様からも学ぶことができます。

内村鑑三、賀川豊彦、留岡幸助、石井十次など、明治・大正のクリスチャンたちは、同時に福祉事業家、社会改革者でもありました。

しかし彼らの働きは、始めた頃は、誰からも受け入れられなかったのです。

そして彼らもまた、人に理解されることなど望みませんでした。

ただ彼らの心に聞こえていたのは、「あなたがこれらの小さな者たちにしたことは、わたしにしたのです」という、キリストの呼び声でした。

どんなに世の人々から拒絶されても、売名行為と嘲られ、決して報われることがなくても、彼らは人々のためにすべてを与えました。

3.

 それがまさに、イエス・キリストのたどった十字架の道ではなかったでしょうか。

だれかひとりでも、キリストの十字架を喜んで受け入れた人がいたでしょうか。

人々のために十字架へと向かっていったイエスを、だれもが理解できず、むしろ彼のまわりからひとり、またひとりと去っていきました。

クリスチャンとは、このイエスがたどった十字架の道を、自らもたどっていく者なのです。

決して報いは求めません。人からの評価を求めません。失敗し、裏切られ、実を結ばないことも数多くあります。

それでも、なぜそれを続けるのか。それは、イエスの十字架がその働きの先に見えているからです。

死のほかは決してこの世の誰からも報われなかった、イエス・キリストの十字架が。

 サマリヤ人たちは、自分たちが救われるために、王であるイエス・キリストが町を通ろうとしておられるのだということがわかりませんでした。

彼らが特別に愚かな存在だったからではありません。これが人間の本来の姿なのです。

そしてそれを見て怒りに燃えた、ふたりの弟子ヨハネとヤコブもまた、紛れもない人間の本来の姿です。

彼らはイエス様にこう提案します。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか、と。

たとえキリストの愛弟子であっても、彼らは目には目を、歯には歯を、という報復の発想から逃れられませんでした。

しかしイエス・キリストは、どんなに拒まれても、どんなに卑しめられても、決して罪人をお見捨てにはなりません。

事実、このサマリヤ人たちでさえ、後にピリポの伝道によって救われたのです。

そして彼らの救いを確認するために教会から遣わされた使徒のひとりが、このとき火を降らしましょうか、と言ったヨハネでした。

サマリヤ人も変えられたし、ヨハネも変えられました。彼らを変えたものは何でしょうか。

それは、十字架の上で死なれたイエス・キリストは、確かによみがえられた救い主なのだ、という福音です。

 私たちは、世の人々に仕えます。たとえ理解されなくても、評価されなくても、変わることなく、世の人々に仕えていきます。

そのひとつひとつの働きを通して、忘れてはならない、失ってはならないことは、福音を伝えさせてくださいという情熱です。

このイエス・キリストに出会うならば、今まで変わらなかった人生が、今日変わるかもしれないのだ、という希望を。

一人ひとりが、生活の中で関わっている幾多の人々にイエス・キリストを証ししていくために、どうか今日のみことばが励ましとなりますように。