恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2019.9.8「福音こそ人をいやす力」(ルカ9:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 このたびの台風15号で被災した方々、また停電の中で不便な生活を強いられている方々が励まされますように。 同盟教団に所属する教会の被災情報については、こちらをご覧ください。またお祈りください。 週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』9章1-6節 序.  今から何百年も前の話ですが、あるお金持ちが、外国の商人からある大きな生きものを手に入れました。 ところがあまりにも大きすぎて、玄関に入らない。外につないで盗まれるのも困るので、いそいで倉のなかにその動物を入れておきました。 近所の人は、その珍しい生きものを見せてくださいと頼みましたが、金持ちは盗まれるのがいやで断り続けました。 そこで人々は塀越しに、倉の小さな窓からチラリと見える姿から、その生きものが何か想像したそうです。 ある人は、あれは大きな蛇だと言いました。おれが窓からみたら、灰色をした長い蛇がくねくね動いているのを見たぞ。 別の人が言いました。いやいや、確かに灰色をしていたが、あれは蛇なんかじゃなかった。翼をぱたぱた動かしているのがちらっと見えた。 さらにもう一人が言いました。いいや、あれは角のばかでかい牛だ。真っ白い、それは大きな角が、天に向かって突き出されていたぞ。 有名な話ですので、この生きものの正体が何かはおわかりでしょう。答えは象です。 蛇に見えたものは長い鼻、翼に見えたものはぱたぱた動く耳、そして角に見えたものは、大きく反り返った牙だったというわけです。 この話はある教訓を秘めています。それは、ひとつの同じものや出来事でも、人によって注目する点や受け取るものが違うということです。 1.  今日の聖書箇所である、イエス様が12使徒を派遣するできごとは、マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書に共通して記されています。 しかし先ほどの象の印象のように、福音書によって、強調されている点が異なります。 マルコの福音書から先に見てみると、そこでは、イエス様が伝道旅行に弟子たちを二人ずつ組にして派遣したことを強調しています。 マルコ自身は12使徒ではありませんでしたが、彼は後にペテロの通訳をしています。おそらくマルコはペテロから話を聞いたのでしょう。 ペテロは自分の兄弟であるアンデレとペアになって、遣わされたところでよい働きをしたのかもしれません。 マルコは、ペテロの通訳をする前に、いとこであるバルナバと、パウロの伝道旅行に助手としてついていった経験もしています。 コンビ伝道とでも言いましょうか、お互いの欠点を補い、長所を伸ばしていく、その伝道スタイルをマルコはとくに強調して記しているようです。  では、マタイの福音書ではどうでしょうか。 マタイの場合、実際に派遣されたコンビのグループリストを挙げてはいますが、マルコほど二人組を強調してはいません。 代わりに彼が強調しているのは、イエス様が派遣前に語られた説教です。 マルコとルカが、派遣前の説教を注意書きのように数行しか語っていないのに対して、マタイはなんと2頁も費やして説教を記しています。 これは私の想像になってしまいますが、ペテロが兄弟のアンデレと組になって、気の合う兄弟と伝道を楽しんだのに対して、 マタイはパートナーとの信頼関係に不安をおぼえながら、頼るのはイエス様のおことばのみという思いで説教を心に刻んだのかもしれません。 ちなみにマタイの福音書では、マタイのパートナーはトマスになっています。ちょっと面倒くさい人だったのかも知れません。 2.  そして、ようやく今日の聖書箇所に戻りますが、ではルカはどこに強調点を置いて、この出来事を記しているのでしょうか。 二人組で派遣されたことも、そのペアのグループの詳細についても記していませんし、イエス様の説教も、わずか数行しか記録していません。 しかしルカはルカで、この伝道旅行に対して彼独自の視点を見いだしていました。 それは、みことばを語ることを通して、病がいやされていくということです。 ルカもまたマルコと同じように使徒ではありません。彼はパウロの協力者であり、医者でした。 ルカは福音書と使徒の働きを記しましたが、その中には医者としての視点が含まれているところが多くあります。 もともと医者である彼が、みことばが語られることによって病気がいやされていくことを語っているのは、たいへんにユニークだと思います。 1節をご覧ください。使徒たちは、悪霊と病に打ち勝つ力と権威をイエス様から与えられました。 しかしその力と権威は、「神の国を宣べ伝えること」を通して行使され、病気がいやされていきます。 6節では、このように語られています。「十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。」 福音を宣べ伝えることと、病気がいやされることとが、ちょうど車の両輪のように、お互いに欠けざるものとして描かれているのです。  このことは何を意味しているのでしょうか。それは、福音を語ることを通して、実際に人々の病気はいやされていった、ということです。 この箇所には、「宣べ伝える」という言葉が繰り返して語られています。2節では「神の国を宣べ伝え」、6節では「福音を宣べ伝え」。 この「宣べ伝える」という言葉は、短いことばによる力強い宣言というよりも、真理を順序立てて丁寧に語っていくという意味です。 病気には、主に肉体の病気と精神の病気がありますが、病気の原因は、聖書から考えるといくつかのパターンがあります。 悪霊によって引き起こされるものもあれば、生活習慣や、流行病などで病気になることもあります。 すべての病気が人間に責任があるのではなく、神が病気を通して私たちの信仰を訓練される場合すらあります。 しかしここで「宣べ伝える」ことによって病気がいやされていったということ、 それは先ほど言ったように、悪霊をイエスの御名によって追い出すという短い宣言というニュアンスではありません。 使徒たちが、イエス様が彼らに説き明かしてくださった旧約聖書の再解釈を、筋道を立てながら、人々に伝えていったということです。 私たちが福音を語るというのは、聖書全体を聖霊によって説き明かすことができる特権を生かして、自分のことばで救いを説明していくことです。 このように福音が語られていくときに、人々の病がいやされていくことを、聖書が証言しています。 3.  福音というのは、人々が理解できず混乱している問題に対して、神の与える光を照らし、患部をメスで開いていくことです。 今日の説教の冒頭で語ったことを思い出してください。象の話です。あの話のひとつのポイントは、 倉の中に隠されて全体がわからない生きものを、人々が部分的な判断で勝手に解釈したところにあります。 多くの人々が、その生活のなかで、問題や空しさを感じています。 しかしなぜその問題が起きているのか、なぜむなしさから解き放たれないのか、そのメカニズムを人々は知らないか、間違った解釈をしています。 ある人々は、自分の中にある依存症を認めようとせず、それによってかえって自分の価値を貶めることになれてしまっています。 また別の人は、家族や人間関係が突然破綻してしまったとき、自分の過去を間違った振り返りかたをして、自分を責めるだけになっています。 その他、色々な問題を抱えている人たちで世の中は満ちており、例外はありません。 しかし問題が見いだされるとき、それがなぜ起きているのか、必ず原因がどこかにあるのです。 その原因を勝手な判断によって、間違えている結論を、あたかも真実のようにすり込んでしまうのがこの世界です。  福音は、そんな私たちに、神のことばを基準として自分の人生を見つめ、魂の深みをのぞき込むことを教えます。 私たちが、問題を抱えている人々に対して筋道を立てて福音を伝えるときに、それを聞く人の心に御霊が働かれることがあります。 そしてその人を長年苦しめてきた病から実際に解放してくださいます。仮にそこまで至らないことがあったとしても、 自分の抱えている問題のメカニズムを知るだけで、空を切るような戦いから、手応えのある戦いへと向き直ることができるのです。  福音を伝えるって大変そうだな、って考えてしまうかもしれません。しかし確かなことは、福音を聞くことで救われる人がいるということです。 残念ながら、福音を聞いたすべての人が変わるわけではありません。変わるということは御霊がもたらす、100%神のみわざだからです。 しかしだからといって、私たちがだれかに福音を語らなくても自然に神様が救ってくださるのだというのは正しくありません。 もしそうだとしたら、イエス様は12弟子を派遣する必要はなかったでしょう。 クリスチャンが語る福音を通して、問題の根源にある罪の原理が明らかになり、人は救われるのです。 福音を語るための力と権威はすでに私たちにも与えられています。あと唯一必要なものは、経験です。 何度も経験を繰り返して、その道を究めていくのが弟子の生き方です。今週も、機会を生かして、誰かに福音を語ることができますように。