恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2019.9.1「送り出されて勝利」(使徒13:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 週報はこちらです。 聖書箇所 『使徒の働き』13章1-12節 1.  新潟市の西区にあるI教会は、新潟大学の近くにあるので、昔から学生たちがよく集まってきていました。 今日の聖書箇所に出てくるアンテオケ教会を思い巡らしていると、昔そこの牧師先生が話してくださったことばが思い出されてきました。 「新潟大学の学生たちは、その6割が新潟県外に実家がある。そして卒業後は新潟にとどまらず、地元に戻るか東京で就職する。 教会に通っているクリスチャンたちも例外ではない。彼らが卒業した後も新潟、この教会に残ってくれたらなと思うこともある。 だが、ここはもともと宣教師が学生センターとして建てた教会だ。 私たちの教会が心がけていることは、卒業するまで彼らにクリスチャンのイロハを教え、自信をもって別の教会へ送り出せるようにすることだ」と。  せっかくこの教会に導かれたのに、この教会で救われたのに、送り出さなければならない。つらいことです。 I教会に限らず、私たちの教会も含めて、多くの教会が、「送り出す」という痛みをしばしば経験してきました。 しかしそれは痛みだけで終わることはなく、必ずそれにまさる恵みをもたらしてくれることを、アンテオケ教会の姿が教えてくれます。 もし送り出すことを命じたのが神様ご自身であるならば、送り出した者たちを用いて、神様は大いなるみわざを現してくださるのだ、と。  アンテオケ教会は、サウロとバルナバという、その教会にとってなくてはならない教師あるいは預言者を伝道旅行へ送り出しました。 それは教会にとって、犠牲を伴うことであったことは間違いありません。教会そのものがばらばらになってしまう危険だってありました。 しかし礼拝の中で聖霊の命令が語られたとき、彼らがためらったことを匂わせる記録はありません。かわりに、こう書いてあります。 「そこで彼らは、断食と祈りをし、ふたりの上に手を置いてから、送り出した」と。彼らはすぐさま聖霊の声に聞き従いました。 礼拝で語られたのです。聖霊が語られたのです。だから彼らはあくまでも神のみこころを選び取ったのです。  神が用いられる教会は、人数が多い少ないに関係ありません。伝統があるかないか、経済的に余裕があるかどうかでもありません。 神が用いられる教会は、神の働きのために犠牲を払う覚悟を持っているかどうかです。 聖霊はアンテオケ教会のひとり一人に語られました。「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」。 礼拝で聖霊が語られるというのは具体的にどういうことでしょう。礼拝中に天から雷のような声が響いたということではありません。 ひとり一人の心に同じみことばが語られたとき、それぞれが同じチャレンジを受け取ったのです。それは聖霊にしかできないことです。 その意味で、みことばによる一致というのは、神だけがなすことのできるみわざです。人のかけ声によるものではありません。 それはひとり一人がみことばに真剣に臨むときに生まれます。いまこのとき、私たちがみことばに真剣に向き合うのです。 2.  それにしても、アンテオケ教会のメンバーとして名前が挙げられている人々を見ると、なんとユニークな教会だろうかと思います。 キプロス島出身のバルナバ、もと教会を迫害した、タルソ生まれのサウロ。どちらもギリシャ文化圏で生まれ育ったユダヤ人です。 またニゲルと呼ばれるシメオン、このニゲルは英語で言うニグロ、つまり黒人ではないかと言われます。クレネ人ルキオ。 この二人は、ユダヤ人ですらなく、ユダヤ教に改宗した異邦人であったと思われます。そして極めつけが、国主ヘロデの乳兄弟マナエン。 乳兄弟というのは、兄弟同様に育てられた者ですが、国主ヘロデとは他でもない、バプテスマのヨハネを処刑したヘロデ・アンティパスです。 マナエンがどのような経緯でキリストを信じるに至ったのかは定かではありませんが、それはヘロデ王家にとってスキャンダルであったでしょう。 異邦人出身の改宗者あり、あのヘロデ王の乳兄弟あり、とにかく個性的なメンバーばかりが集まっているアンテオケ教会でありました。 しかしこのアンテオケ教会こそ、本家エルサレム教会が手を出さなかった異邦人伝道に取り組み、その後のセンタ-教会になっていくのです。 一見まとまりがなさそうなその教会を一つにまとめていたのは、誰でしょうか。人ではなく、礼拝そのものでありました。  教会にとって何が一番大切かと問われたら、それは礼拝である、と私は答えます。 どんなにその教会が居心地の良い場所であろうと、活発な働きをしていようと、礼拝がおざなりであれば、そこに聖霊の声は聞こえません。 逆に言えば、礼拝が真剣にささげられているならば、居心地の良さや、働きの活性化などは後から追いついてくるということです。 以前、ある役員の方がこんな祈りをしてくださいました。「教会が晴れの時も嵐の時も、休むことなく礼拝をささげてきた」。 今週の週報に表紙には、通巻2435号と書かれています。今日も含めて、2435の主日礼拝ひとつひとつ、 私たちが全身全霊を込めて、あなたのためにささげてきましたと全員が主に祈ることができたら幸いですが、 たとえそうでなくても、この礼拝から私たちがたましいをこめてささげていくならば、そこに聖霊の声が響き渡ることでしょう。 御霊がわたしのためにささげよと指名しているのは、だれでしょうか。 いつか、この教会から主のためにいのちと人生をかける者が起こされることを願ってやみません。 3.  そしてサウロ、バルナバ、マルコは、アンテオケから南に下った港セルキヤから船でキプロス島へと渡りました。 アンテオケの町をおこがましくもこの豊栄に当てはめると、キプロス島はちょうど海の向こう、佐渡が島のような場所にあるかと思います。 キプロス島は四国の半分くらいの大きさですので、佐渡島よりずいぶん大きいですが、ここはバルナバのふるさとでもありました。 彼らはキプロス島に渡ると、最初にキプロス島の東端にある大きな町サラミスでみことばを伝えました。 そのあと、各地を周りながらサラミスの反対側、西の端にある大都市パポスへ到達しました。 この町には、ローマ総督府があり、セルギオ・パウロがその総督でした。そして彼は神の教えを聞きたいと願っていたと言います。 ところが彼のそばにはいつもユダヤ人の魔術師バルイエス、別名エルマがぴったりはりついていて、サウロたちの伝道を妨害しました。 この魔術師エルマの姿は、福音の真理が語られるとき、必ずそこには人々を福音から遠ざけようとする力も働くことを示しています。  私たちがイエス・キリストを伝えようとするとき、悪魔も人を用いてそれを何とかして妨げようとします。 しかしそこで恐れずに語り続けるならば、必ずそこにはこのセルギオ・パウロのように、主を信じるたましいが起こされるのです。 サウロとエルマとの対決は、サウロがにらみつけるとエルマを闇が覆ったとあるように、一見すると超自然的な力のぶつかり合いのように見えます。 しかし違います。この聖書からキーワードを拾って繋げていきましょう。 サラミスを皮切りに、神のことばを宣べ始めたサウロとバルナバ、彼らの噂を聞いて二人を招いて神のことばを聞きたいと思っていた総督、 ふたりに反対して総督を信仰の道から遠ざけようとしたエルマ、そして対決の出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。 強調されているのは、神のことば、主の教え、です。 この時代にはまだ聖書が完成していなかったがゆえに、神はサウロの手に奇跡を行う力を与えて、神の力を証しさせました。 しかしいま私たちの手には聖書があります。この聖書こそ、どんな闇の力も及びない、神の剣であり、神の鎧です。 人々を暗やみから光に引き戻す力は、この聖書のなかに証しされた、イエス・キリストにあります。 そしてそのために、私たちはこの聖書を与えられているのです。聖書は、本棚やかばんのすき間を埋めるだけではあまりにもったいありません。 どうかクリスチャンも、求道者の方々も、聖書を毎日、学んでください。この聖書の中に、幸いな人生のすべてが詰まっているのですから。