恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2019.7.28「キリストにだけ頼りなさい」(マルコ2:13-17)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 週報はこちらです。 聖書箇所 『マルコの福音書』2章13-17節 1.  昨年の11月から教会に出席しておられたMさんは今日、バプテスマを受けてクリスチャンになりました。 私たちはこの洗礼の瞬間に立ち会うたびに感動をおぼえます。 そして私自身にとっても、今日の洗礼式は、今までの洗礼式に増して、大きな喜び、そして今までにない、緊張感の伴うものでした。 それは、M兄自身が、ご自分の証しの中で語られておりましたので、私も言葉を選びつつ述べますが、彼はある依存症と闘い続けてきました。 依存症は、それがどのようなたぐいのものであれ、「回復はしても完治はしない」と言われます。 依存症は、自らの欲望や行動について、コントロールが利かなくなるもので、その人の意思の力や努力ではどうにもならないものである、 たとえば20年間、アルコールから離れていた人が、一度誘惑に負けてしまえば、瞬く間にその力に飲み込まれてしまう。 だからこそ、「決して完治はしない」というショッキングなことが言われます。これは決して偏見ではなく、それほどまでに強力なものだということです。 Mさん自身は、今まで依存症と闘ってきた人生の中で、人間の無力さについては誰よりもよく知っていました。 だから罪に対する人間の無力さ、そしてイエス・キリストによってしか完全なる救いはないということについては、すぐに受け入れました。 しかし問題は、そこから先でした。 救われたからこそ、悪魔は彼の心の中に潜むネガティブなものを再び駆り立てて、再び無力感の泥沼へと引きずり下ろすことが予想されました。 救いに力がないという意味ではもちろんありません。 しかし悪魔は、クリスチャンが洗礼を受ける前や、洗礼を受けた直後のまだ未熟な時期に、とくに執拗な攻撃を繰り返してきます。 Mさんも、洗礼試問会まではある意味、順調でした。 しかしそこから洗礼を受ける今日この時まで、彼に対する大変な攻撃があったことを私は彼から直接聞き、そして祈ってきました。 それは、彼自身が、このような霊的状況で、洗礼を受けることができるのだろうかと悩むくらいです。しかしだからこそ受けるべきだ、と答えました。 洗礼は、私たちが清くなった証しではありません。どのような時にもキリストとともに生きるという決意を示すものです。 生きるのはキリストと一緒に、死ぬときもキリストと一緒に。その覚悟を、水と火のきよめを象徴するバプテスマは表しています。 Mさんの戦いは、これからも続くでしょう。しかし今までの人生で彼が繰り返してきたような、先の見えない戦い方はもうありません。 ただキリストの御名に頼る戦いを彼は知りました。そしてこのキリストに人生をゆだねる覚悟を、私たちに表しました。 彼が自らの依存症について役員の前でも私たちの前でも公に表したことは、それ自体が回復への確かな途上にあるということです。 これからも、彼とともに、そしてキリストとともに、私たちは互いに励まし合いながら歩んでいきたいと思います。 2.  イエス・キリストは、取税人レビに目をとめて、「わたしに従いなさい」と語られました。このレビは、十二使徒の一人となる、マタイその人です。 そして彼は、取税人仲間である自分の友人たちも招いて、宴を開きました。マタイさん歓送会、主催、マタイ。ちょっと悲しいです。 そこにパリサイ人がケチをつけます。自分の歓送会を自分で開いたことに対してではもちろんありません。 取税人、罪人、遊女、そのように嫌われている人々が集まった宴に、イエス・キリストも喜んで出席していることにケチをつけたのです。 しかもケチの付け方がいやらしい。イエス様に言わないで、弟子たちに言うのです。どこの世界にもこういう人たちがいます。 きっとイエス様にわざと聞こえるように、パリサイ人たちは大きな声で尋ねていたのでしょう。そこでイエス様はこう答えました。 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」  私はつい最近まで、この「医者」についてのくだりは、イエス様、うまいたとえ話をするなあ、と思っていました。 ところがMさんと学びをする中でこう考えるようになったのです。 依存症というのは、本人の意思の力でどうにでもなるものではない。心を強く持てば何とかなるというものではなく、病気なのだ。 そしてキリストが、「罪人を招くために来た」ことを説明するために医者の話をした、それは罪が病気そのものであることを示すためではないかと。 ここで私が罪は病気であると言っていることを拡大解釈しないでください。人間が自分で直せるものではない、ということを言いたいのです。  アルコール依存症の専門外来がある、新潟市東区にある河渡病院のホームページにこんなデータが掲載されていました。 総人口1億2千万人のこの日本で、アルコール依存症の疑いがある人は約440万人だそうです。30人に一人の計算です。 予備軍を含めて約440万人のアルコール依存症者のなかで、とくに病院での治療を必要としている重度の方はその2割、約80万人。 では実際に治療を受けている人がどれくらいいるか。わずか4万人だそうです。80万人のうちの約5%でしかありません。 この事実は、アルコール依存症の本人も家族も、これが治療が必要な病気ではないと考えている人がどれだけ多いかを物語っています。 依存症はアルコールだけではありません。薬物依存、ギャンブル依存、買物依存、ネット依存、ポルノ依存、それ以外にもたくさんあります。 これらの依存は、心の弱さから生まれるものではありません。育ってきた環境や、遺伝といった要素で決まるということだけでもないそうです。  聖書でいう「罪」もまた、人が心を強く持てば何とかなるというものでもないし、生まれや育ちによって抑制できるというものでもありません。 それは、全人類を等しく苦しめる、死に至る病です。ただ、病と気づいていないがゆえに、人は罪人というレッテルを貼られることを怒ります。 しかしイエス様が、自分が罪人を招くために来た、と語るときに、あえて医者の仕事について語ったことから、私たちは次のことを学びます。 罪とは病であり、自分の力で何とかできるものではない。それは、たましいの医者であるイエス・キリストに自分を任せなければならないのです。 3.  M兄だけでなく、すべてのクリスチャンにおぼえてほしいことですが、私たち人間は、救われた今でも、罪に対して完全に無力です。 確かにイエス・キリストを信じたときに、私たちは罪と戦うことができます。しかしそれは私たちが強くなったのではなく、キリストが強いからです。 キリストに頼らなかったら、生活への妥協、責任転嫁、感情の爆発を繰り返し、自分だけではなくまわりも苦しめていくことが続きます。 では、キリストに頼る、というのはどういうことでしょうか。それは言葉でイメージするほど甘美で、楽しい経験ではありません。 医師イエス・キリストだけが持っている、みことばという万能メスによって自分のたましいから罪を切り捨てられる痛みを伴うものだからです。 甘美という意味では、一時的な楽しみや、誘惑に身をゆだねることは甘美です。それが罪に繋がることを知り、戦うことは辛いことです。 しかし私たちは、霊的な病人なのです。キリストがいなければ決していやされることのない者です。 キリストのみことばは剣のように鋭く、力があります。それは人の心の隠れた罪をもえぐり出します。 みことばは、人が口先で慰めたり励ましたりするものとは違います。相手の苦しみにうんうん頷くだけだったら、行きずりの者でもできます。 しかし、イエス・キリストのみことばには、あなたの人生を丸ごと背負うという覚悟が、内なる炎のように常に燃えさかっています。 だから、どんなに厳しく、難解なことばのように思えても、みことばが働くときに、たましいの病んだ人を救うことができます。 私たちが救われたのは、自分の力によるのではありません。いま生きているのも、自分の力によるのではありません。 ただ、このキリストに自分のたましいをゆだねましょう。お医者さんにとって治療の弊害になるのは、患者の余計なプライド、そして嘘だそうです。 私たちは、救われたあとでもいくらでも失敗するし、罪を犯してしまいます。しかしキリストは、そんなことははじめからすべて知っておられます。 知っておられるからこそ、私たちのために十字架にかかってくださいました。そして何度でも、許してくださるお方です。 罪を犯したとき、素直にイエス様の御名を呼び、すべてを打ち明けてください。この方は、決して変わることのないお方です。 依存症の回復には、依存させているものよりも夢中になれるものを見つけることだそうです。 私たちには、この世界のすべての楽しみをかき集めても引き換えにできないような、イエス・キリストとともに生きる喜びが与えられています。 どうか、M兄をはじめとして、一人ひとりがこのイエス・キリストを常に見つめながら、歩んでいくことができますように。