恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2019.7.21「救いは神の恵み」(使徒9:1-22)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 先週の水曜日、わが同盟教団の元理事長である故・吉持章先生の合同お別れ会が千葉県印西市にあるTCUチャペルで行われました。 東京くらいだと新幹線でさっと行こうかなという気持ちになりますが、千葉となると、東京から先がまた遠いのですね。 水曜祈祷会もあるし、どうしようかなと思っていましたが、結局妻の勧めもあり、新潟-成田間を運行している飛行機で行きました。 ところが一日一便なので、水曜午後1時からのお別れ会に出るために、わざわざ前日、火曜日の午後2時の便で行かなければなりません。 夕方には予約したホテルのある駅に着いたので、早めの夕食を済まそうと近くのショッピングモールをぶらつきました。 すると、すれ違った、ひとりのご婦人から声をかけられました。失礼ながら、お顔に見覚えがありません。 「どなた様ですか」と聞くと「小林の妻です」という答え。ああ!二年前に帰天された小林高徳先生の奥様でした。 聞くと、二年前にご主人を亡くされたあと、インターネットでご主人の名前を検索していたときに、当ブログの記事を見かけたそうです。 http://toyosakakyokai.sblo.jp/article/181532570.html http://toyosakakyokai.sblo.jp/article/181700515.html 一度メールをしたかったのですが、ということでした。なんという偶然、いやいや、神が与えてくださった邂逅でしょうか。 じつはこのような経験は初めてではなくて、5年前に石川弘司先生が亡くなられたときにも、私自身は葬儀に出席できなかったのですが、 「葬儀に出席してくださった方から近先生のブログ記事のコピーを見せていただいた」と、 ご遺族の方(現・鹿児島いずみ教会の牧師夫人、瓜生園子先生)が後日挨拶してくださったことがありました。 ブログを7年続けてコメントは25件(うち半分は私からの返事)しかなくても、見ておられる方はいるのですね。週報はこちらです。 聖書箇所 『使徒の働き』9章1-22節 1.  今日は、救いは神の恵みであるという話をしたいと思います。 これには、二種類の意味を込めています。ひとつは、救いを経験する本人にとって、恵みであるということ。 そしてもうひとつは、ひとりの人の救いにあたって、神はまわりのクリスチャンもその救いの目撃者、協力者、当事者としてくださるという恵み。  さて、サウロという青年がいました。彼はユダヤ人として英才教育を受けた人でした。 そして自分の知識と信仰に照らして、クリスチャンこそは偽りの教えを信じている、神の敵と信じ込んでいました。 クリスチャンを見つけては捕まえて牢に入れ、クリスチャンをこの地上から消し去ることに自分の全エネルギーを注ぎ込んでいました。 それでも彼は良心の呵責をおぼえることはありませんでした。なぜなら、クリスチャンを滅ぼすことが神の与えられた使命だと信じていたからです。 サウロは、クリスチャンが逃げた先であるシリヤのダマスコにまで追いかけていくための紹介状を得るために、しもべたちと道を進んでいました。 しかしそのときに、イエス・キリストは、まばゆい光としてサウロの前に突如現れたのです。それは彼に見えぬ光、彼にしか聞こえない声でした。 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。その経験こそ、多くの画家が描き残している、「サウロの回心」と呼ばれる出来事です。 もしサウロがこの時救われなかったら、キリスト教はここまで成長していなかっただろうと、多くの歴史家が口を揃えて言います。 しかし神は、サウロの能力にほれて突然救ったのではありません。この世界が造られる前から、サウロは救いに定められていたのです。 神にはじめから選ばれていた者でありながら、サウロはそのようなことはまったく知らず、良心の呵責もおぼえずに教会を迫害していました。  そう考えてみると、救いというのはなんと不思議なのでしょうか。 この人は救われるはずがないと、クリスチャンがため息をつくような人でさえ、はじめから神に選ばれているかもしれないのです。 その人の心がいまはどうであろうとも、救われる希望はあらゆる人から取り去られてはいません。 サウロはクリスチャンをこの世から抹殺しようとしていました。しかし神はこのサウロを救われました。救いは、ただ一方的な、神のみわざです。 だからこそ、私たちには希望があります。もし救いが人に左右されるものであるとしたら、それは恵みではありません。 しかしたとえその人の心がどれだけ頑なに見えたとしても、神が働いてくださる時、その人は変わるのです。私たちもそうだったのではないでしょうか。 でも、確かに救われました。それは、私たちの救いを信じて、あきらめずに福音を伝えてくれた誰かがいたからです。 もしあなたが先に救われた者であれば、今度はあなたがあきらめずに福音を伝える誰かになるべきです。 2.  人が救われるのは、ただ神の恵みです。そしてもうひとつ、神はその救いに人を関わらせてくださいます。これも恵みです。 サウロは天からの激しい光によって視力を失いました。失意の中で、サウロはなぜ自分の身にこのことが起きたのか、祈っていました。 救われるためには、悔い改めが必要です。そして神は、パウロの救いに対して、アナニヤというひとりの信者を関わらせてくださいました。 神はあらかじめ救いを定められておられますが、その救いは自動で起こっていくのではなく、人の関わりを通して実現されていくのです。  アナニヤがいなければ、後の大伝道者パウロは生まれませんでした。しかしアナニヤ自身は、歴史にほとんど名を残すことのない人でした。 あなたが神様のために働きたいと願うならば、すばらしいことです。しかしその働きを実際に行うという道だけが用意されているのではありません。 その働きを行う人を生み出す者、育てる者、支援する者、あらゆる有名、無名の関わりの中で、神の働きは進んでいきます。 自分の名を世界に残すことよりも、神の御名を世界に広げることを願いましょう。そうすれば、神はどんな小さな者をも用いられるのです。 アメリカに大リバイバルをもたらした伝道者ムーディーを救いに導いたのは牧師ではありませんでした。 自宅を開放して教会学校を開いていた、決して有名ではない靴屋職人、なんとかという人がムーディーを信仰へと導いたのです。  そしてさらに付け加えるならば、神に用いられるのは有名、無名ではなく、神と親しく交わる者だということをおぼえましょう。 アナニヤは、歴史に足跡を残した大伝道者ではありませんでしたが、神様とよく交わって生きていたことは、その会話からよくわかります。 神に語りかけられたとき、アナニヤは「はい、ここにおります」と答えました。 ふだんから神と交わっているからこそ、神様から呼びかけられたとき、すぐに答えることができたのです。 公の礼拝や祈祷会、教会学校やその他のでの奉仕、家庭での個人礼拝や祈りのとき、そこで私たちは神様と常にやりとりをします。 地道な、しかし忠実に信仰生活が繰り返されていくなかで、私たちは神の声をさらに深く聞き分けることができるようになっていきます。  アナニヤと神とのやりとりは、なんと生き生きしていることでしょうか。アナニヤは、神に物申すことさえはばかりません。 サウロのところへ行けという命令に対し、このサウロという人は非常に危険な男です、どうしてですか、と答えます。 神の命令に盲目的に従うということではありません。神からの問いかけを受取り、それが自分の納得できないときに、正直に言い表す。 すると神は、さらに詳しく彼に語られる、この親しい交わりこそ、クリスチャン生活の醍醐味です。 神は今日、あなたにも語りかけておられます。神が小さな者を、そして忠実な者を用いられることを聖書は約束しています。 私たちは神のみ声を聞き分け、自分の小さな力を神の大きな働きのためにささげましょう。 神様は私たちのすぐそばに、パウロさえも超える働きをなす者を置いておられるのかもしれないのですから。 3.  最後に、サウロに起こった心の解放を私たちも味わいながら、説教を終えたいと思います。  22節、「しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた」。 あらゆる人間は、過去を背負って生きています。人はその過去の傷にしばしば打ち倒され、何年経ってもうずき、もがきます。 サウロは、自分自身が迫害者であったという負の過去を忘れてしまったわけではありません。しかしそれを乗り越える方法を手に入れました。 それは、福音によって生きるということです。イエス・キリストの十字架と復活によって、私は救われたのだと叫び続けることです。 救いとは、その日の内側にある努力や品性とはおよそ無関係なものです。ただイエス・キリストが示してくださった愛だけが、救いのよりどころです。 この救いを受け入れるとき、私たちの過去は、七色の光を受けて輝き始めます。 「私の人生に起きたすべてのことは、何一つ無駄なことはない、いまキリストを信じて、あらゆることが神のご計画にあったことがわかった」と。 どんな苦しみも、人生に無駄のない経験です。どんな悲しみも、人の痛みに寄り添うための経験です。 サウロは、迫害者という自分の過去を背負いながらも「ますます力を増し」、福音を伝えることができました。 それは、すべてのことを神は益としてくださったという確信です。それが福音です。 キリストがあなたのために十字架で死んでくださいました。過去を封印する必要はなくなり、むしろ過去のすべてが感謝に変わっていきます。 この福音によって、私たちもまたサウロのように圧倒的な人生の転換を経験することができます。 いまここに導かれて、神が私たちの心に語りかけてくださっていること。その恵みをかみしめながら、イエスを見上げて歩んでいきましょう。