恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2019.7.14「散らされてこそ生きる」(使徒8:4-8、26-40)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 今回の説教の冒頭で触れている、不思議な生き物、プラナリア。 私は説教の中に登場する事物について、週報の表紙に掲載することが多いのですが、さすがにこの生き物は掲載できませんでした。 確かに割りとかわいい顔をしてはいるのですが、やっぱり、こういうの苦手な人もいますしね。    クリックすると、Amazonの商品ページに飛びますが、突然課金されたりはしませんのでご安心ください。  ちなみに変な生き物の能力を使える人たちが火星でゴ○ブリと対決するという壮大なマンガ『テラフォーマーズ』では、 13巻にプラナリアの詳しい解説がありますので、興味があったら読んでください。週報はこちらです。 聖書箇所 『使徒の働き』8章4-8、26-40節 1.  プラナリアという生き物をご存じでしょうか。日本でも、川や池で見つけることができる、長さ3センチくらいの生き物です。 形はヒルに似ていて気持ち悪いのですが、よく見るとマンガみたいなどんぐり眼があって、だんだんかわいく見えてくるので不思議です。 このプラナリアの驚くべき再生能力が、近年、医学の分野で大変注目されています。 長さ3センチのプラナリアを頭から尻尾までメスで切って10こに分けると、なんとそれぞれに脳や内臓ができて10匹になったそうです。 一応雄と雌がいるようですが、別に相手がいなくても問題ない。 ある程度成長すると、からだの真ん中がくびれてきて、ぷつっと切れてしまう。そしてそれぞれが成長して、二匹に増えるのです。  ステパノの殉教から始まった大迫害によって、エルサレムから散らされていったクリスチャンたちは、まさにこのプラナリアのようでした。 ひとりひとりのクリスチャンは、その散らされた場所、ユダヤ、サマリヤなどでみことばを伝え、そこに信じる者の群れが生まれていったのです。 プラナリアのからだが切れ端から再生する以上に、神のからだは、どんなにばらばらに引きちぎられても、決して死ぬことはないのです。 振り返ってみると、迫害によってクリスチャンがエルサレム教会から散らされていくことは、はじめから計画されていた神のみこころでした。 イエス様は天に上る前に、弟子たちにこう約束しておられたからです。 聖霊を受けるとき、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、および地の果てにまで私の証人となる、と。 しかしペンテコステの出来事からしばらく経っても、宣教はエルサレムの外にはなかなか進んでいきませんでした。 神のカレンダーは、今こそめくられたのです。この迫害こそが、神の用意しておられた、そのときだったのです。 エルサレムにいた信者たちは無我夢中で、取るものも取りあえず、町の外に逃げ出していったはずです。 これからどうなるのか、という不安があったでしょう。どうして神はこのようなことを許されるのか、と叫んだことでしょう。 しかしギリシャ語で「散らされる」という言葉は、直訳すると「種が撒かれる」という意味です。 イスラエルの農業では、種を植えるとか苗を植えるという発想はありません。種を袋から取り出して勢いよくまき散らします。 まさにこれが神のやり方です。神は、世界に向かってクリスチャンという種をまき散らすことで、祝福を広げていくのです。 2.  神は、クリスチャンに対して、エルサレムにとどまってそこで大きくなることを求めてはいませんでした。 ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、あなたがたはわたしの証人となる。それが実現する、強いられた恵みとしての、迫害だったのです。 風が吹かなければ、たんぽぽの種は飛びません。ばらばらに散らされてこそ、その散らされた場で、それぞれが再び成長していきます。 教会の礼拝にお誘いすることは立派な伝道です。しかし自分の家庭を解放し、未信者を招き入れることも伝道です。 初代教会の時代は、会堂はなかったので、伝道というのはそのように自分の家に人々を招き入れるということのほうが主でした。 それを聖書では「家の教会」と呼んでいます。しかし牧師もいなかったので、信者一人ひとりが客をもてなしながら、聖書を伝えました。 豊栄教会のメンバーは、確かに教会から離れた所に住んでいる方の割合が多いです。 しかしその分、それぞれの地域にある、ひとつひとつの家庭が福音の礎になることを願っています。 家庭礼拝から家庭集会が生まれ、家庭集会が家の教会となり、やがて地域教会となれば、それは聖書的な道筋だと言えるでしょう。  どんなにばらばらにされても、そこから再生していく生命力が、クリスチャンには与えられています。 エルサレムから散らされたクリスチャンの一人で、あのステパノとともに七人の執事のひとりでもあったピリポは、サマリヤに向かいました。 そして神はピリポを通して、サマリヤで大いなるすくいのみわざを起こしてくださいました。しかし神のみこころは、すでにその先を見据えていました。 聖霊はピリポにはっきりと命じられました。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」と。 そして聖書記者はこう付け加えます。「このガザは今、荒れ果てている」。新改訳2017では、「そこは荒野である」と訳しています。 誰も好んで歩まないような荒野。人々から忘れ去られた荒野。しかしそこには、神が救いに定めたもう、ひとりの求道者がいたのです。 サマリヤ伝道は、神様の大いなる奇跡が存分に発揮されました。ピリポを通して、悪霊が追い出され、中風の人がいやされました。 人々が、神の力を信じずにはいられない、力強いみわざが起こされました。しかし神は、伝道はそれだけではないことをピリポに示されました。 たったひとりでガザへと向かう道の中で、出会うべくして出会う一人の宦官。そのひとりの痛み、望みと一対一で向き合う、もうひとつの伝道です。 私たちが聖霊の語りかけに自分を従わせていくならば、ふさわしい時、ふさわしい場所、ふさわしい人を備えてくださるのです。 3.  この宦官は、聖書をまったく知らない人ではありません。むしろすでに神を信じていた外国人であったと言えます。 それは、エルサレムで礼拝をささげ、という表現、また外国人でありながらイザヤの書を所有しているということからわかります。 しかし神を信じてはいても、まだ救いを体験していませんでした。イエス・キリストについて一度も聞いたことがなかったのです。 ピリポが聖霊に促されて馬車に近づいたとき、彼に聞き覚えのあるイザヤ書の一節が聞こえました。 しかしおそらくその朗読はたどたどしく聞こえたのではないでしょうか。彼は「そこに書いてあることがわかりますか」と聞かずにはいられませんでした。 そこから、この宦官とピリポの、短いが、しかし人生を変えるやりとりが始まりました。それは神が用意してくださったものです。 必要なのは、聖霊が私たちに「立て」と命じられるのであれば立ち上がること。「下れ」と言われたら荒れ果てた道へと下っていくことです。 従うならば、神が私たちのすべてを用いてくださって、イエス・キリストを伝えるために扉を開いてくださいます。  現在、エチオピアはその総人口が約1億人ですが、その60%がクリスチャンであるということです。 2千年前と現在のエチオピアを単純に繋げることはできませんが、このひとりの宦官の救いは、彼らが想像できなかった大きな実を結びました。 一人のクリスチャンが聖霊の声に聞き従うとき、新たな一人のクリスチャンを生み出します。 そしてその新しく生み出された一人のクリスチャンから、また新しい一人のクリスチャンが生まれていきます。 散らされることを恐れる必要はありません。神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる、とバプテスマのヨハネは言いました。 散らされてい、自分しかクリスチャンがそこにいなくても、そこからまたもう一人のクリスチャンが起こされていくのです。 私たち一人ひとりが、あるクリスチャンによって生み出された者でもあり、また生み出すほうの者でもあります。 神様にこれからの一週間を期待して、歩んでいきましょう。