恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2019.6.23「みことばが届いていますか」(使徒4:32-5:11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 週報はこちらです。 聖書箇所 『使徒の働き』4章32節-5章11節 1.  32節、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」。 教会は、当時の社会では想像できないような、自由な世界でした。奴隷も主人もない世界。異邦人もユダヤ人もない世界。 どんな人間も、それこそ肌の色でも、あるいは人格でもなく、ただイエス・キリストを救い主として信じたことで、すべてを分かち合える世界。 それが教会でした。信じる者たちは、ただ自発的な意思に基づいて、仲間のためにささげていました。 ささげたからといってみなの前でほめられることはありません。ささげなかったからといってみなの前で糾弾されることもありません。 ただ自発的な意思に基づいて、すべての恵みを共有できる国。それが教会でした。  その力の源はどこにあったのでしょうか。続く33節にはこう書いてあります。 「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」。 力の源はみことばでした。財産が目減りしていく不安をかき消したのは、やがて天の御国でいただける希望でした。 みことばを通して、彼らは地上の財産に比べられない、大きな恵みを与えられていました。 使徒たちは力強く証ししました。イエスはよみがえられた。そして私たちも、たとえ死んだとしてもイエスと共によみがえるのだと。  地上のものに対する執着を、みことばはイエスに対する執着へと変えました。 人種、国籍、職業、血筋、すべての壁がこわされ、そこにあるのはキリストの復活を信じる者というひとつだけ。 その恵みへの感謝として、静かに使徒の足もとに財産をささげ、乏しい者がひとりもいない。そこには完全な自由がありました。 自分だけが自由であればよいという混沌じみた自由ではなく、隣人を顧みて、何をすべきかを考えていく秩序立った自由がありました。 私たちに自由を与えるのは教会の居心地のよさではありません。自由を与えてくださったイエス・キリストとそのことばをかみしめることです。 この世では何をどれだけ持っているかということが大切にされます。しかし教会ではそのような誇りは何の役にも立ちません。 生まれた時からすり込まれてきた価値観がみことばによって砕かれるとき、そこには自由があります。 自由は、人を変えます。自由は、変わることを恐れません。真の自由は、一人ひとりがみことばをかみしめていくことでもたらされていきます。 2.  しかし自由にはリスクが伴います。ささげるのもささげないのも自由だからこそ、サタンにつけ入れられる隙もありました。 アナニヤとサッピラという一組の夫婦によって、教会が受け取っていた自由の中にひびが入れられてしまいました。 アナニヤのしたことは何だったのでしょうか。5章1、2節にはこうあります。 「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」。 彼ら夫婦は、自分たちの財産を売りました。しかしその一部を全部と偽って、教会にささげたのです。 これは、一般の道徳規準から言えば、死にあたるものではありません。人の財産を処分したわけでも、着服したわけでもない。 自分の財産を売り、その一部を残して、残りを全部と言って持って来たのです。誰にも迷惑をかけていません。 しかし神は知っておられました。知っておられたからこそ、イエスを信じて神の子どもとされたこの夫婦の姿を悲しまれました。 「人に迷惑をかけていないんだからいいじゃないか」。それがこの世界の考え方です。 しかし神の国では異なります。人がどう思うかではなく、神がどう思われるかです。 そして人が見抜けないものも神は見抜いておられます。人は、自分の心を他人には隠せても、神には隠せません。  アナニヤ夫婦の心に隠されていたのは「ねたみ」でした。 日本語の聖書では、4章と5章と切れていますが、実際に二千年前に書かれた聖書には、章や節はついていません。 バルナバがささげたことと、この夫婦のささげたこととは、一続きの出来事として描かれています。 バルナバが自分の持っていた地所をすべて売却して教会にささげたとき、教会の中でうわさとなり賞賛されたでしょう。 そしてサタンはこの夫婦にこうささやきました。 「あなたがたも、彼のようにささげるならば、人々は彼のようにあなたがたを尊敬するだろう。 もしあなたがたが、彼以上にささげるならば、使徒も信者たちも、彼以上にあなたがたを信仰深い者だと言うかもしれない」。  教会の交わりを破壊するものは、ねたみです。それは外から入ってくるものではありません。私たちの内側からわいてくるものです。 救われて聖霊が住んでくださったクリスチャンの心そのものに、サタンは決して手出しができません。 だからクリスチャンが目や耳を通して入ってくる情報を利用して、内側から引き起こさせようとします。 ある教会に新しく赴任してきた牧師は、その教会に古くからいる役員を苦手としていました。 そしてその役員が他の信徒と二人きりで話していると、自分のことを批判・中傷しているのではないかと気になって仕方がなかったと言います。 実際には、そんなことはまったく話していないのです。しかし何気ない光景をねじ曲げて、人に悪意をもたらすのがサタンの常套手段です。 しかし誘惑を受けることは避けられなくても、それを信仰によって収めるか収めないかは、私たちの手にゆだねられています。 救われたとは言え、私たちの心にはいまだに罪の性質というサビがこびりついています。みことばと聖霊は、そのサビを取り除くもの。 だからこそ、みことばが厳しく聞こえ、苦々しささえもたらすときにも、信仰をもって受け入れ、自分自身を砕かれていかなければなりません。 教会は、イエス・キリストがご自分のいのちによって買い戻してくださって自由とされた者たちの集まりです。 しかし自由だからこそ、それぞれにゆだねられている事柄があります。 みことばから耳をそむけ、自分の心からわき出るねたみに身をゆだねるならば、アナニヤ夫妻のように知らずにサタンの協力者となるのです。 3.  しかし最後に、この夫婦はそれでも救われていた者であることは間違いありません。 地上での終わりがこんな残念なものであったとしても、信じた者に約束されている永遠の命と天国は奪われていないと言い切れます。 救われて聖霊が内側に住んでいるはずの夫婦だからこそ、ペテロは彼らに対して「なぜ聖霊を欺いたのか」と言われるのです。 また聖書が、この夫婦が運ばれて葬られる場面まで記録していることは、彼らが信者として死んだという証しとして受け止めることができます。 イエス様は、聖霊を汚す人は赦されない、と言われていますが、それは信者でない人に対して適用されるみことばです。 神はこの出来事を通して、神の子どもたち、クリスチャンに対して、このように警告しておられます。 聖霊が私たちの内側で、罪から離れるように叫んでおられるのに、さまざま理由をつけてそれに従わないということであれば、 たとえ永遠のいのちは約束されていたとしても、神はこのようにさばきを与えられるのだということです。 すでに召されましたが、小畑進先生が、まだ神学生だった私にこう言ったことがありました。「みんな晩節を汚して死んでいく」と。 人々に尊敬されていた牧師、あるいは信徒が、老いを重ねるにつれて、成熟どころか、道を踏み外してしまう姿も見てきたのでしょう。 私自身も、アナニヤとサッピラのような失敗をするかもしれません。私だけでなく、すべてのクリスチャンがその誘惑にさらされています。 だからこそ、私たちはみことばを聞き、みことばを語るということを大切にしていきたいものです。 未信者の方に福音を語ることも大切ですが、それ以上に大切なのは、 救われた信者たちが、救われたということの上にあぐらをかいて、自らを点検することをなおざりにすることがないように、みことばはあります。 みことばこそ、サタンの誘惑に打ち勝つことのできる力です。どうかみことばによって自分を変えていくことを恐れないように。 自分の心にあるねたみを放置せず、神の前に認め、日々きよめられて歩んでいきましょう。