・側室を持つことが当たり前の時代、正室しか持たず、最後まで添い遂げた ・娘はクリスチャンになった(明智玉子=細川ガラシャ) ・信長からキンカ頭(禿?)とあだ名をつけられたが、我慢し続けた個人的には25年前の大河ドラマで村上弘明さんが演じた光秀の誠実なイメージが印象に残っています。週報はこちらです。 聖書箇所 『ローマ人への手紙』7章14節-25節 1. 今から約440年前の、ちょうど今日6月2日、日本の歴史で外すことのできない、「本能寺の変」という出来事が起こりました。 今日の説教題は、そのとき織田信長を裏切った家来、明智光秀の言葉、「敵は本能寺にあり」をもじったものです。 なんか思いつきで説教を作っているのかと言われそうですが、決してそんなことはなく、今日の説教は構想に何年もかけております。 これ以前に6月2日が日曜日だったのが2013年。それから6年間、本能寺の変と日曜日が重なる日を待ち続け、今日を迎えました。 なぜ「本能寺の変」が起きたのか、つまりなぜ明智光秀が織田信長を裏切ったのか。これは日本史最大のミステリーと呼ばれています。 私が子どもの頃、本で読んだのは、織田信長という人間は有能だが、短気な性格で、光秀もいじめられていたから、というものでした。 ところが、近年の研究で明らかになったのは、信長は短気どころか、あの徳川家康も及ばないほど、忍耐深い人であったという事実です。 こんな狂歌を聞いたことはないでしょうか。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」。これは織田信長の性格を指したものだと言われます。 それに対して、徳川家康が「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。 でもじつは家康は、子どもの頃から信長を兄のように慕っていて、「鳴くまで待とう」は信長をそのまま真似ていたのだというのです。 忍耐がなかったら、信長も秀吉も家康も、だれであろうとも、天下を取ることはできないのですね。 よかった、聖書とつながりました。一に忍耐、二に忍耐、忍耐してこそ、約束のものを手に入れることができるのです。 このように信長のイメージがずっと誤解されてきたように、信仰の世界にもずっと誤解されてきた言葉があります。 それは、「律法」です。律法とは、旧約時代に神がイスラエルに与えられたさまざまな命令を指します。 この「律法」から「律法主義」という言葉が生まれました。神の命令を完全に守ることで救われるという、間違った考えです。 でも律法と律法主義はまったく異なるのです。律法は、恵みの反対語ではなく、律法そのものが神の恵みのひとつです。 14節をご覧ください。パウロはこう語っています。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています」。 「霊的」とは、神から来たもの、という意味です。神は私たちに幸いを与えるために律法を与えられた。それを実行するならば確かに救われる。 ですがこの言葉には続きがあります。パウロはため息交じりにこう語ります。「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」。 私、これはすべての人間、と読み替えてください。律法がどんなによいものであったとしても、それを行う力がない、それが私たちなのです。 2. イギリスがまだ世界じゅうに植民地を持っていた頃の話です。ある国に女王陛下からすばらしいグランドピアノがプレゼントされました。 国といっても、当時はいわゆる未開の部族です。そもそもピアノを弾ける人がいるのかと心配になり、イギリス本国から役人が派遣されました。 しかし彼は王様の家で、信じられない光景を目にしました。弾けないどころではない、グランドピアノが上下さかさまに置かれていたのです。 このたとえが何を表しているか、想像がつくでしょうか。グランドピアノは律法、そしてその国のすべての人々が、私たちです。 神が与えてくださった律法がどんなにすばらしいものであったとしても、生まれながらの罪人には、それを行う力がまったくないのです。 律法は、神が与えられたものです。しかしパウロは言います。私の中には罪が住みついている。私の肉のうちに善は住んでいない、と。 「肉」とは、別の言葉では「古い自分」と記されています。それは古い生き方にしがみついていたいという、もうひとりの自分です。 変わらなければならないことをおぼろげに感じてはいても、何も変えない方が楽であり、居心地がよいではないか。 自分を変えろという前に、まわりが変わるべきではないか。私が謝る前に、向こうのほうから謝るべきではないか。 しかし実際は、まわりに変わらないでほしいし、向こうから謝らないでほしい。それをされると、自分も変わらなければいけないからです。 古い人は、私たちを何とかして今のままにとどめようとする、心の内壁にこびりついている、悪しきしみであり、強い力です。 律法は霊的なものであり、私たちはそれを行えば幸せになれます。しかし人間は、それを行う力そのものを失ってしまっているのです。 パウロはすでに救われていたにもかかわらず、「でした」という過去形ではなく、「です」という現在形で語っていることに目をとめてください。 彼はいま、自分の中に起きていることとして、延々とこう書き綴ります。たとえば14節、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。 15節、私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。 18節、私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。 そして24節、私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 ほんとうにこれは、クリスチャンの言葉なのでしょうか。だとしたら、いったいどこに救いがあり、喜びがあるのでしょうか。 しかし忘れないでください。パウロは、自分の内側の恥をここまでさらすことで、私たちも自分の心の中に目を留めるようにと願ったのです。 すべての人は罪人である。反発を受けやすいことばですが、罪がわからないからこそ、人は知らずに罪を犯し続けているのだということです。 何をすれば神が喜ばれるのかがわかりません。だから、神が憎まれることを神が喜んでおられるかのように誤解して、罪を繰り返します。 3. 私は、小さい頃から仏壇、神棚に手を合わせるのが喜びでした。それをすれば祖母がほめてくれて、神様も喜んでいると思っていたからです。 しかし教会で、神以外のものに手を合わせることこそが、神の嫌われている偶像礼拝だと教えられて、驚いた記憶があります。 私たちが神様を喜ばせていると思っていた行為が、じつは一番神様を悲しませていたということが、その他にもたくさんあるのです。 家族とのかかわり、人生の目標や価値観、親や教師に教えられてきたこと、それが本当に善であるか、それとも悪であるのか。 これが、すべての人間の姿なのです。自分では良いことをしていると思っていても、じつは神を悲しませている。 本当の神を神としてあがめない。本当に助けを求めるべき方に助けを求めない。人生を楽しんでいるようで、じつは支配されている。 でも、人は自分ではそれに気づきません。たとえ気づいたとしても、自分の力では変えられません。パウロの叫びは、すべての人の叫びです。 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 自分のからだに、自分の心に、ナイフをつきたて、罪そのものを取り出して捨てることができたらどんなに楽でしょう。 しかし罪は、私の心の内側にべったりと張り付いています。 クリスチャンは罪のさばきは完全にまぬがれましたが、罪そのものから完全に解放されたわけではありません。 罪に支配されることは決してありませんが、いまも罪の干渉を受けながら、最後まで罪と戦い続けます。 クリスチャンとして救われたのに、まだ古い自分が残っている。じゃあ本当に私は救われているのかと疑わずにいられない事柄です。 しかしイエス様が神でありながら人としてお生まれになったのは、私たち人間の弱さを受け止めるためでありました。 だとしたら、クリスチャンが救われた後も罪の葛藤を残しているのは、いまも罪の中をさまよっている人々の苦しみを受け止めるためです。 クリスチャンは、罪の葛藤を残していますが、罪の力に負けることは決してありません。 それは、聖霊なる神が信じた一人ひとりの中に生きておられるからです。聖霊は、神が何を喜ばれるかを教えます。 クリスチャンが罪を犯しているとき、それを悲しまれ、涙をもって警告を与えます。そして罪と戦って勝利を収める力を与えてくださいます。 「敵は本能にあり」。ふざけた説教題に思えたかもしれませんが、私たちの本当の敵は、私たちの内側にいることをおぼえましょう。 神と適当に折り合いをつけて歩んでいこうとささやく、もうひとりの自分自身が私たちの内側には潜んでいます。 しかし私たちは救われたとき、聖霊が心に住んでくださいました。 そしていまも聖霊の力をいただき続けて、古い自分から新しい自分へと、常に生まれ変わり続けます。 パウロの叫びを、ともに叫びましょう。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」 一人ひとりの、これからの歩みのうえに、イエス・キリストの祝福がありますように、祈ります。
2019.6.2「敵は本能にあり」(ロマ7:14-25)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の説教題は、だれもが思いつきそうなネタで申し訳ありません。お恥ずかしい限りです。
日曜日がちょうど6月2日(本能寺の変の当日)と重なる日を狙っていたのですが、
今回を逃すと次は2024年になってしまいますので、明智光秀と同じようにためらいながらも決行しました。
歴史の授業ではイスカリオテのユダと並んで裏切り者の代名詞のような光秀氏ですが、近年再評価が進んでいるようです。