彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31:33,34)しかし現実には、共依存的な牧師と信徒の関係がまかり通っているような教会が多いのです。 あまり詳しく書くと、豊栄教会のことを言っているのではないかと邪推されるので、具体的な言及は避けますが、 牧会の目的は、信徒が牧師の手を借りなくても自立できるように養育し、訓練するというところにあります。 「牧師にしかできないことは牧師が、信徒にもできることは信徒が、 そして牧師にしかできないと思っていたことが信徒もできるようになることを証する」、そんな教会を目指しながら。 説教や聖礼典が牧師以外でもできるようになる、という意味ではありませんのでお間違えのないように。週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』4章14-30節 1. 私は中学生、高校生の頃、鏡を見るのが苦手でした。自分の顔が気に入らなかったのですね。 今では何気なく使われている「朝シャン」という言葉。 「朝にシャンプー」という意味ですが、これが流行語大賞になったのが昭和62年。私がまさに高校に入る頃の時代でした。 しかし朝シャンどころか、顔を洗う、歯を磨く、髪型を整える、全部いや。鏡を見なければいけないから。ずいぶんばっちい高校生でした。 しかし先日、実家に泊まったとき、たまたま当時のアルバムを発見しました。そしてつくづくこう思いました。いやあ、いい男だなあ、と。 眉も今の二倍きりっとしています。どうして自分の顔があんなに嫌いだったのか、今となっては不思議でたまりません。 じっくり見ていると、松○潤みたいです。なぜ私の姉が、弟の写真をジャ○ーズ事務所に送らなかったのか、と首をかしげるばかりです。 どこまで本気で、どこまで冗談なのかと、みなさんのほうが首をかしげると思いますが、 当時、自分の顔が嫌いだったというのは、自分自身が嫌いだったからでした。 いわゆる、セルフイメージ、自分自身をどのように見ているか、ということが極めて低かったのかもしれません。 「ありのままでいい」とか「世界にひとつだけのオンリーワン」とか「君は愛されるために生まれた」とか、まるで聞いたことがない時代でした。 鏡というのは、左右が逆に映るというのは別として、ありのままの姿を映し出します。 いま鏡を覗くと、47歳という年齢相当の顔が映ります。頭に白いものが混じり、目の下の皺も目立ちます。 しかし自分の顔を見ていやだなあと思うことはもうありません。年を取って変わったのではなく、信仰を持ってから少しずつ変わってきました。 それは、神さまが私をこのままの姿で愛してくださっているんだということを、自然と受け入れるようになったからです。 ここで、私は改めて「礼拝とは何か」ということを考えます。礼拝とは何か。それは「その人を映し出す鏡」と言うことができるでしょう。 神に期待せず、礼拝に出ているだけということであれば、礼拝は、そんなあなたを映し出す鏡であり、礼拝は無味乾燥なもので終わります。 しかし神に期待して礼拝に加わっているならば、どんなに整っていない礼拝であろうとも、礼拝はあなたの期待そのものを映し出す鏡となります。 あなたは、今日どのような思いで、この礼拝の場に与っているのでしょうか。もちろん全員が、それぞれの期待をもって集っていることと信じます。 礼拝は、「自分を映し出す鏡」であると同時に、広く言われているのは「礼拝そのものが神へのささげものである」ということです。 期待をもって礼拝に集うとき、それは私たちの喜びを映し出す鏡となります。 同時に、神様も心から喜んで、その礼拝を最上のささげものとして受け入れてくださいます。 2. 聖書には、礼拝について多く書かれています。その中で今日の箇所は、イエスが故郷ナザレでささげた礼拝について触れられています。 当時の礼拝は、説教があらかじめ準備されているのではなく、その日の出席者の中から聖書朗読と説教を募る形であったようです。 そしてすでに他の町で名声を博していたイエスに、巻物が手渡されました。そしてイエスは、そこからイザヤ書61章を朗読されました。 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。 主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。 しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」 そして彼はここから何を語るのか、と町の人々がじっと見守る中、イエスはこう宣言されました。 「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」 「みなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いた」。ここでこの物語が終わっていたら、どんなにすばらしいでしょうか。 しかしここからが本当の物語です。礼拝が、人々の本当の心を映し出す鏡であるということが示されていくのです。 そして、「みな」という言葉に注目してください。最初の反応、すなわち22節では、「みなイエスをほめ」と書いてあります。 しかし最後の行動、28節では、「会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを丘のがけのふちから投げ落とそうとした」のです。 よりによって生まれ故郷に錦を飾る礼拝の中で、イエス・キリストへの殺意がみなにわき起こった、という事実に私たちは驚きます。 礼拝は、恵みの時であるはずです。それなのに、礼拝の中で殺意が生まれるなど、私たちは決して認めたくはないでしょう。 しかし、恵みとは何でしょうか。まず礼拝の恵みは、本来、神に近づく資格のない私たちなのに、神が近づけてくださるあわれみです。 救いの恵みはどうでしょうか。 本来、永遠の地獄しか道はないはずの私たちを、イエス・キリストが身代わりとなって、永遠のいのちへの道へと入れ替わってくださったことです。 そのどちらも、私たちが自分自身の中にある闇、悪、罪と真っ正面から向きあうことなくしては、成り立ちません。 ナザレは、ユダヤの国の中で差別されていたほうの町でした。彼らはその憤懣を、外国人に対する優越意識で紛らわせていました。 だからイエス・キリストが、旧約聖書の事実から、神がユダヤ人ではなく外国人にまっさきに目を留められたと話すと、彼らは激しく怒ったのです。 礼拝の中で、私たちは自分の誇りを傷つけられ、認めたくない恥を突き刺されます。しかしそれを受け止めるとき、初めて道は開かれるのです。 3. 礼拝の形式は、教会によっても違います。しかし黙想を通して自分を見つめる、賛美歌の一つ一つの歌詞をかみしめ、 聖書朗読や説教を通して罪示され、恵みに目開かれ、最後に祝福の祈りを通して再びそれぞれの一週間へと遣わされていく、 そこにはあらゆるプログラムを通して、私たちが自分の心を見つめ、神を仰ぎ、悔い改めとゆるしが宣言されていきます。 罪人としての自分自身を見つめることは、正直苦しいことです。 礼拝という名の鏡を通して、自分自身を見つめるならば、そこにはあなたの人生を変えるための秘訣が待っています。 こんな私のために身代わりとなって命を捨ててくださった方、生まれながらの罪人であった私を永遠の滅びから救ってくださった方、 このイエス・キリストが示してくださった愛は、自分自身という鏡を通してこそ、喜びが沸き起こってくるのです。 きょう、あなたは礼拝という鏡をのぞき込み、自分自身をその中に見つめています。そこから、二つの選択肢が生まれます。 罪にまみれた自分の姿をそのまま直視し、そんな私を唯一きよめることのできるイエス・キリストをさらに見上げていくのか。 それとも鏡に映っている自分のみにくい姿は本当の私ではないと叫び、鏡の前から逃げ去ってしまうのか。 礼拝は、必ずしも常に甘く、楽しい時というわけではありません。 そこには私の罪という胃液がこみ上げてきて、喉を焼かれるような、苦々しささえも感じることさえもあります。 しかしその中で私たちは十字架を仰ぎます。神のひとり子イエス・キリストがその十字架の上で、私たちの身代わりとなってくださったことを。 そして私たちの罪は、神のひとり子が身代わりにならなければ決して清算されないほどまでに、根深いものであるということを。 しかし聖書はこうも約束しています。イエスは十字架の上で終わったのではなく、よみがえったのだ、と。 私たちがこの方を心から信じるならば、その罪はすべて許されて、人生のあらゆる問題はすでに解決されていることを。 だからこそ私たちは今日も礼拝をささげます。まことの礼拝は、あなたに罪を示します。 しかしその罪を取り除き、あなたを永遠のいのちの喜びへと引き上げる恵みも、この礼拝のなかだけにあるのです。 一人ひとりが、改めて自分の心という顔を鏡に映していただきましょう。 私たちがどれほどひどい姿を鏡の中にさらしても、神がイエス・キリストというすばらしい救いを与えてくださったことは決して変わりありません。 このイエス・キリストを一人ひとりが心の中に受け止めながら、歩んでいきましょう。
2019.1.27「礼拝はあなたを映す鏡」(ルカ4:14-30)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
有名な戦場カメラマンであったロバート・キャパの名言に「私(戦場カメラマン)の夢は永遠の失業である」というものがあります。
つまり、戦場カメラマンなど必要のない、争いのない平和な世界を求めながら彼は戦っていたということなのでしょう。
私自身も、牧師の夢は永遠の失業ではないかと考えています。