恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.12.30「乏しいことだらけのあなたへ」(詩23:1-6)

 あけましておめでとうございます。いつか獅子舞のように激しい説教がしたい、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。  さて、牧師によって礼拝説教の長さは違いますが、だいたい20分が理想的、平均は30分と勝手に分析しています。 私の場合、この20~30分に収めるために、自分の話すスピードに応じて、原稿を3000字前後で作っています。 原稿段階でこの字数を大幅に越えた場合には、何度も推敲して、泣く泣く削り取るということもしています。あたりまえですが。 これだと、計算上は説教が30分を越えることはありません。  しかし、実際には40分になることはざら、酷いときには50分になってしまうこともあります。 なぜでしょうか。おわかりですね。原稿にない、余計なアドリブを加えてしまうからですね。今回もやっちまいました。 「ある大手寿司チェーンではネタの皿が30分回ったら自動廃棄」(02:40頃) このくだりは、まったく原稿になかったものでしたが、説教の流れの中で頭に浮かんだのでつい使ってしまいました。 ところが、なんということでしょう。実際は「30分」ではなく「350m」でした。3しか合ってないわ。スシ○○さんごめんなさい。  ちなみに350mを時間に換算すると、実際に測ったわけではありませんが、秒速5cmとすれば約2時間というところでしょうか。 もし350m=30分として計算したら、秒速20cmになってしまいます。それはそれでゲームセンターみたいで楽しそうですが。  今年は、なるべく不確かなアドリブを加えないように気をつけます。 しかしこういう失言が楽しみだという人もおりますので、困ったものです。週報はこちらです。 聖書箇所 『詩篇』23篇1-6節  1.  先日、妻から、ある全国チェーンの回転寿司に連れて行ってもらいました。 いや、実際、車で連れて行ったのは私のほうなんですが、経済的には妻に連れて行ってもらったというか・・・。 ちょっと前までは、回転寿司というのは、まさにグルグル回っているレーンの上を、寿司を載せお皿が動いていくというスタイルでした。 お気に入りのネタが自分の前を通り過ぎるときにぱっと取るのですね。 遠くから狙っていたトロの皿が直前で隣の客にとられてしまうこともあり、なかなか緊張感が抜けない戦いでもありました。 まあ、真ん中に職人さんが何人かいるので、トロお願いというとすぐに出してもらえるのですが、気が弱い人はなかなか声がかけづらいのです。 しかし今は、タブレットがそれぞれの座席に置いてあって、タッチパネルで選ぶのです。 すると、リニアモーターカー顔負けのスピードで、寿司を載せたお皿がシュッと目の前にやってきます。 一皿百円なんて当たり前、ラーメンは出るわ、鰻丼は出るわ、デミグラスハンバーグ、フライドポテト、フルーツパフェ、・・・ 豊栄に一軒だけある某ファミレスチェーン店より豊富なメニューが並んでいます。  こんな豊かなニッポンの平成最後の主日礼拝、「わたしは乏しいことがありません」、現実味のないことばに聞こえます。 しかしもし私たちがダビデのように詩篇を作るとしたら、一行目の後半にはこういう言葉を使うでしょう。「私は乏しいことだらけです」。 確かに食べ物は、捨てるほど有り余っています。 ファミレスが一軒もないような町でも、インターネット回線とクレジットカードがあれば、翌日にはどんなものでも届けてもらえます。 しかしどんなにモノに囲まれていても、これで十分だ、ということがありません。 自動車保険、火災保険、地震保険、生命保険、がん保険、ありとあらゆる保険に加入しても、まだ安心できません。 たましいが生き返るどころか、朝起きての第一声が、「ああ疲れた」という人もいます。 不安で眠れぬ夜に欠かすことのできないウイスキーは、杯からあふれています。 いや、私はクリスチャンですから、そんなことはないですよ、と、もちろんあなたは言うでしょう。その根拠は何でしょうか。 言うまでもなく、「主は私の羊飼い」。だから、乏しいことがないのです。自分自身を羊のようなものと認めるとき、乏しいことがないのです。 私たちは羊です。そして永遠の大牧者イエス・キリストが私たちを導いてくださると信じているから、いつまでも平安の中に生きることができます。 2.  私たちが牧者イエス・キリストに導かれる羊だとしたら、それはどういう意味でしょうか。 羊は、そのかわいらしい姿とは裏腹に、たいへん頑固で、めんどくさい動物です。最近使われている言い方だと、「残念な生き物」となるでしょう。 後先のことを考えないので、瞬く間に自分がいるところの牧草を食べ尽くしてしまいます。しかも糞をそこらへんにまき散らします。 草を食べ尽くしても、糞が混じった土から草の根を掘り起こして食べようとするので、あたりに病気を広めてしまいます。 だから羊飼いは、牧草を食べ尽くすことがないように、いつも羊たちを野から野へ、山から山へと移動させていかなければなりません。  また羊には鋭い爪も牙もありませんので、オオカミなどに襲われたらひとたまりもありません。 じゃあ弱いだけのいわゆる草食系かというと、ある動物に対しては残忍というくらいに、圧倒的な攻撃性を持っています。 そのある動物とは何か、想像がつくでしょうか。じつは、仲間に対してです。同じ弱い羊なのに、より弱い者に対しては強気に出ます。 もし羊飼いがいなかったら、互いに小突きあい、ぶつかり合って、気に入らないものを群から追い出してしまいます。 何かに似ている、いや、誰かに似ていると思いませんか。あえて言いましょう、私に似ています。 しかし私だけではなく、まさに私たち「メエメエ」(めいめい)に当てはまるのではないでしょうか。羊だけに。 メエメエとめいめいをかけています。羊だけに大切なことなので、二回言いました。  私たちは羊です。信仰を持っていても、どこまでも近視眼的です。目の前の草に固執してしまい、そこから先を見ることができません。 私たちは羊です。神様が与えてくださったものやことがらに感謝するどころか、むしろ不平不満で汚してしまうこともあります。 私たちは羊です。自分勝手な、「こうあるべき」という基準を自分の中に作って、それを満たさない人をさばき、傷つけてしまいます。 私たちは羊ですだからこそ、羊飼いが必要なのです。 私たちをいこいのみぎわまで連れて行ってくださる方。私は決してあなたを見捨てず、いつまでもあなたとともにいる、と語りかけてくださる方。 インマヌエル、主我らとともにいます、と崇められる方、イエス・キリストこそ、私たちの羊飼いであり、荒れ果てた人生からの救い主です。 このイエス・キリストを、私たちが心に受け入れるときに、決して奪い去られることのない平安が、私たちの中に生まれます。 3.  ダビデは、少年時代に羊飼いとして経験したことを思い出しながら、自分を羊に置き換えて、こう語ります。 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」。 先ほど説明したとおり、羊飼いは、常に羊を移動させながら、生活します。 自分の家に帰るということは数ヶ月に一度か、あるいは家そのものを持っていない者も少なくありません。 一つのところに留まって牧草を食べ尽くしてしまわないように、常に歩み続ける羊と羊飼いは、運命共同体とも言えます。 焼け付くような昼間の暑さ、凍えるような夜の寒さ、突然襲いかかってくる獰猛な獣たち、油断すれば足元が崩れてしまう山道、・・・・ とにかく常に目を見張っていなければどんなわざわいが起こるかわからない、死の陰の谷を彼らは歩み続けます。 それは、私たちの人生そのものと言ってよいでしょう。この死の陰の谷の最も狭く細い道を、今まさに歩んでいるところだという人もいるでしょう。 しかしイエス・キリストを羊飼いとして仰ぐ者たちは、決してわざわいを恐れることがありません。 なぜなら、どんなに獰猛なけものが襲ってきても、羊飼いであるイエスが、むちや石投げを使って確実に追い払ってくださいます。 群から離れそうになるときは、手に握った杖を使って、戻してくださいます。 もし本当に離れて、道に迷ってしまったときは、羊飼いは野山を傷だらけになって走り回りながら、探し出してくださいます。  それだけではありません。イエス・キリストは人々にこう語られました。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と。 その言葉のとおり、イエスさまは十字架に自分から進んでいき、いのちを捨ててくださったのです。 それは、道から迷い出た私を、あなたを、永遠の滅びから救い出すためです。 本来、私たちが受けるべき、あらゆる罪のさばきを身代わりとなって引き受けてくださったのです。 あなたは、それを信じますか。それを信じたならば、あなたに待っているのは、永遠の滅びではなく、神の子どもとしての栄光です。 神は子どもたちに、永遠に続く祝宴へと招いてくださっています。神ご自身が食事が整え、恵みが杯からあふれます。 イエス・キリストを信じるならば、恐れと不安ではなく、喜びと平安の中でいつまでも生きることができるのです。  私たちは羊です。羊飼いがいなければ、本当の意味で、人生を楽しむことができないのです。 羊は弱い生き物です。私たちもまさにそうです。しかし神は弱さの中に働いてくださいます。弱さを認めるとき、そこには慰めと励ましがあります。 イエス・キリストは、十字架で釘づけられたその両手を今も広げて、あなたを待っておられます。 この方のふところに飛び込んでいきましょう。