恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.11.25「救いは完全」(第一ヨハネ2:1-6)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

まいど更新が遅くなり申し訳ありません。

以前は当日時間を見つけて更新していたのですが、とうとう土曜更新が常態化してしまいました。

一応、説教原稿はこの時点(夜9時)で終わっていますが、これからクリスマスチラシのデザインにとりかかります。

golgo.jpgコピーライトマークさいとうたかを・さいとうプロ・リイド社

ふう。・・・・・・・・・・・・・・・師走ですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの手紙 第一』2章1-6節 

 ▼今回、講壇からリモコンが取り去られていたので録画できませんでした。だれが持っていったのかな

1.

 新発田朝祷会という、カトリック、プロテスタントの方々が月に一回一緒に集まって祈る集会があり、そこで面白い経験をしました。

何人かのグループになって、順番に祈っていたのですが、私の二つ前の方が「日曜日の各教会の礼拝が祝福されるように」と祈りました。

それはいいのですが、その方の滑舌が少し悪くて、「日曜礼拝」が「一応礼拝」と聞こえてしまうのです。

「いちおう礼拝」「いちおう礼拝」と連発されるので思わずくすっと笑いがこみあげてきて、「一応、礼拝」ではいけない、と思いました。

そうしたらその方の祈りを受けて、次の方がまた、日曜日の各教会の礼拝の祝福のためにお祈りくださいました。

今度は「日曜礼拝」という言葉ではなく、「主日礼拝」という言葉を使っていたのですが、やはり同じように滑舌がよろしくない。

「しゅじつ礼拝」が「しゅじゅつ礼拝」と聞こえてしまうのです。でも、今度はクスッと笑うことはありませんでした。

ああ、そうだ、いちおう礼拝じゃない、手術礼拝だ。礼拝を通して心の中の悪いものを取り除いていただくのだ、と思わされました。

 私たちにとって、礼拝とはどちらでしょうか。「一応」礼拝か、「手術」礼拝か。

一応はさておき、手術という言葉もなんかこわいなあと思う方もいるかもしれません。

しかし礼拝とは、ただほっとする時間、というわけではありません。本当の意味でほっとできるのは、私たちの中に絡みついている汚いもの、

聖書はそれを罪と呼びますが、それをイエス・キリストに取り除いていただく時、それがまさに手術礼拝ならぬ、主日礼拝ではないでしょうか。

 だじゃれのような切り出しで申し訳ないのですが、言おうとしていることは大真面目です。

1節で、まずヨハネはこのように書いています。

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。

もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」。

2.

 「私の子どもたち」。もちろん、本当に血がつながっているわけではありません。

かつてヨハネ自身、すなわちイエスの弟子たちがが、師であるイエスから我が子よと呼びかけられたように、

いまヨハネもあわれみのまなざしを持って、遠く離れたクリスチャンたちに私の子どもたちと呼びかけます。

しかしそこからが面白い。「あなたがたが罪を犯さないため」と言いながら、同時に「もし罪を犯したなら」とも言うのです。

これは、私たちにとって、罪というものがいかに執念深く心の中に絡みついているものかということを表しています。

罪を犯さないようになれれば幸せです。しかし同時に、罪を犯さずにすむ人間など、ひとりもおりません。

私たちはいつもこの板挟みの現実の中で苦しみます。

しかし「罪を犯さないため」ということばを、英語の聖書では「You may not sin」、訳すと「罪を犯す必要がなくなるため」とあります。

生まれつきの人間は、どんなに清廉潔白を自称していても、罪を犯さなければ生きていけない者です。

言うなれば、生きるために、罪を犯すことを必要としている、そんな、あわれで悲しい生き物、それが人間です。

それを聖書は、すべての人間は生まれながら、罪の奴隷だという言葉で表現しています。

しかしかつては罪を犯さなければ生きていけないような者であった者であっても、キリストを信じた今は、罪の奴隷ではありません。

罪を犯すことを必要としていません。確かに私たちは今でも確かに罪を犯します。しかし決して、罪に支配されてはいません。

私たちイエス・キリストを信じる者たちは、罪の奴隷からキリストの奴隷へと買い取られたのです。

イエス様は、ご自分が十字架の死に至るまで父のみこころに従い通し、それによって私たち信じる者たちは、確かに神のものとなりました。

 だからもし罪を犯してしまったとしても、自分を責める必要は一切ありません。

悔い改めは必要です。しかし悔い改めとは、自分を愚か者と責めることではありません。キリストに望みをおきながら罪を見つめることです。

イエス・キリストは、私たち罪人には決してできないことをしてくださいました。つまり父なる神を完全に満足させてくださいました。

だからイエス・キリストのもとに逃げ込むならば、いつでも、どんなことでも、私たちは安心して身を寄せることができるのです。

3.

 神は、聖書が約束しているとおり、イエス・キリストの十字架によって、私たちのすべての罪をゆるしてくださいました。

過去、犯した罪だけではありません。いま、早くメッセージが終わらないかなあと考えている罪もゆるしてくださいました。

明日も明後日も、人生ある限り犯す、将来の罪もです。過去・現在・未来、あらゆる罪を完全にゆるしてくださいました。

すべての罪は、二千年前のイエス様の十字架によって、完全にけりがついているのです。

私たちが善人にならなければならないとか、そんな人間のわざは、救いには必要ありません。

イエス様が与えられた命令は、罪を犯してはならないではなくて、お互いに愛し合うことです。愛は、罪を覆います。

互いに愛し合うならば、私たちはすべての人生の重荷と、やがて来たるべき罪のさばきから、完全に解放されていることがわかるのです。

 最後に、これはカトリックの神父さんから聞いたお話しを紹介したいと思います。

カトリック教会で行われている、告解というものを聞いたことがあるでしょうか。

教会の中に、お互いに顔が見えない、一続きの小部屋があって、そこで信者が罪の告白をし、司祭が赦しの宣言を行います。

中世のことですが、ある強い風が吹いている日に、ひとりの婦人が罪の懺悔にやって来て、司祭にこう打ち明けました。

「私はこれまでずいぶんと人の悪口を申しました。嘘も申しました。このままでは到底天国に行くことはできません。

どうぞ司祭様のお導きによって、神の御赦しを受けたいものと存じます」

すると、壁の向こう側にいる司祭がこう言いました。「神の愛は無限ですから、罪を悔い改めた者は必ずゆるされます。

しかしあなたがそれを学ぶために、いったん家に帰って、鶏を一羽買ってその羽をむしりながら、ここまでいらっしゃい」。

婦人は、おかしなことを命じられたと思いながら、言うとおりにして、また教会の告解部屋に戻ってきました。

すると向こう側から司祭の声。「ご苦労様でした。では、いま歩いてきた道を戻って、抜き捨てた羽を一枚残らず拾っていらっしゃい」

婦人は思わずこう答えました。「こんなに風が強い日ですから、抜いた羽がどこに飛んで行ったか、とうてい拾い集めることはできません」

すると今一度こんな声が聞こえました。

「そのとおりです。あなたのこれまでの嘘や悪口は、ちょうどその羽のようなもので、一度言った以上、もう永久に取り返すことはできません。

しかしイエス・キリストは、もはやあなたがどうすることもできないそれへのさばきを、すべて十字架の上で引き受けてくださいました。

そのことを信じますか。それを信じることができたなら、あなたはもはや過ぎ去った罪をもって心病むことはないでしょう」

結.

 カトリックとプロテステント、少し考え方の違いはあるものの、キリストが私たちの完全な身代わりとなられたと信じることは変わりありません。

そして、イエス・キリストは、十字架の死とよみがえりを通して、私たちの数え切れない罪ひとつひとつを、完全に飲み込みました。

過去、現在、未来、すべてにわたる、私たちのあらゆる罪を、完全にかたをつけてくださったのです。

神のひとり子がいのちを捨てるという、はかりしれない犠牲は、どんな人間の罪をもってしても、いささかもたじろぐことはないのです。

完全な救いが、信じる者には与えられます。さらにイエスさまは、いまも私たちのためにとりなし、弁護してくださいます。

だから宗教改革者マルティン・ルターは「大胆に罪を犯せ」とまで言いました。もちろん罪を奨励しているのわけではありません。

赦しの完全さをかみしめよということです。ぜひ、ひとり一人がこのすばらしい救いをかみしめて歩んでいきましょう。

そして、改めて、このイエス・キリストを、永遠、完全なる救い主として心にお迎えしようではありませんか。