恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.9.16「神のことを思う」(マタイ16:21-28)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 本日、自民党の総裁選が行われ、安倍首相(現総裁)と石破茂氏の一騎打ちとなりました。 結果は、安倍さんが810の有権者数のうち7割に当たる553票を得ての、いわば圧倒的勝利でした。 しかしその810は、国会議員票405および党員・党友による地方票405で構成されており、 安倍さんは前者では8割にあたる329票を得たものの、後者では224対181という辛勝だったという報道でした。 参考 朝日新聞記事「安倍首相が自民党総裁3選 石破氏は810票中254票」  安倍さんはともかく、石破氏の主張などもしばしば問題を感じることは多いのですが、 彼がかつての教会指導者のひとり、金森通倫(※注)のひ孫にあたるプロテスタント信者であるのは有名な話です。 そして何かと失言の多い麻生太郎氏も敬虔な(と知り合いの神父さんが言ってた)カトリック信者であるということも。 でもこの二人、大変仲が悪いようです。安倍さんよりも麻生さんのほうがずっと石破氏を嫌っているみたいです。 それが単に政策の違いでそうなのか、それとも人間的にそうなのか、はたまた教派的にそうなのか、わかりませんが、 二人が仲良くしてくれたら安倍さんも変わり、日本の政治も変わるかもというのは言い過ぎでしょうか。 そういえば、安倍さんの奥様、昭恵さんもクリスチャンである森永太一郎氏のひ孫にあたると聞きました。 (※)棄教を宣言したり、再入信したり、また脱会したりとまあいろいろあったようですが、戦前のキリスト教史を語る上で外せない人物です  でもここだけの話、牧師同士でも仲の悪い人たちっているんですよね。 そして講壇からどんなにりっぱな説教を語ることができても、信徒は牧師同士が愛し合えない姿に最もつまずきをおぼえるのでしょう。 伝道、伝道という前に、まず指導する立場にある者たちがお互いに愛し、敬い合う・・・・自戒としていきます。 週報はこちらです。 聖書箇所 『マタイの福音書』16章21-28節  1.  「私、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。」 映画は見たことがなくても、この前口上はどこかで聞いたことがあるという平成世代もいるのではないでしょうか。 教会に来なくても、イエス・キリストという名前は聞いたことがあるという日本人は多いと思います。 しかし、「姓は車、名は寅次郎」ではありませんが、「姓はキリスト、名はイエス」。 名字がキリスト、名前がイエス、生まれも育ちもアメリカかヨーロッパ。イエス・キリストをそのように考えている人もまた多いかもしれません。 クリスチャンは、イエス・キリストのキリストが、名字ではなくて救い主という意味であることを知っています。 しかし世の中には、うちの教祖こそ救い主だと主張するあまたの宗教で満ちております。 ではキリスト教もその海千山千の一つにすぎないのでしょうか。その答えが、今日の聖書箇所の冒頭にあります。 21節、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」。 エルサレムに行かねばならない、多くの苦しみを受けねばならない、殺されねばならない、そして三日目によみがえらねばならない。 「ねばならない」はよみがえりだけにかかっているのではありません。 都に行くこと、苦しみを受けること、殺されること、よみがえること、すべてにかかる、「ねばならない」です。 しかし、エルサレムに行くことはいいとして、苦しみを受けなければならない、殺されなければならない、 その言葉のショックは、最後の「よみがえなければならない」ということをかき消すには十分すぎるものでした。 神の子が殺される。それは、ペテロが思わずいさめずにはいられなかったほどに、決してあり得ない、いや、あってはならない話だったのです。 「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」。  しかしその言葉に対するイエス様の怒りは、今まで聞いたこともないような激しいものでした。 「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」。 なぜイエス様はそれほどまでにペテロの言葉に憤ったのでしょうか。 その理由は、続くイエス様のことばが語っています。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 2.  ペテロの言葉には、イエス・キリストを心から慕う師弟愛がほとばしっていました。しかしその愛は信仰から出ていません。 弟子たちは、確かにイエスが神の子であるという信仰にはたどり着いていました。 しかし彼らは神の子についてまるでわかっていなかったのです。 主よ、あなたは神の子でしょう?神の子が殺されるようなことがあっていいはずがありません。 それに対してイエスははっきり否、と叫びました。 これから人の子は、あらゆる嘲りを受け、唾を吐きかけられ、考えつくありとあらゆる苦しみを一身に引き受けるのだ。 なぜ?それは、すべての人が本来受けるべき罪のさばきを、わたしがすべて身代わりとなることによって、あなたがたを確かに救うために。  それは人間の理性では受け入れられないことです。それを受け止めることができるのは、ただ信仰を通してしかあり得ません。 科学の進歩は、膨張し続ける宇宙の果てさえも撮影し、遺伝子工学はヒトゲノムのすべてを解析するところにまで来ました。 世界の果てと遺伝子の深みをのぞき込んだ科学者の中には、創造者である神の存在を信じる者も少なくはありません。 しかし創造は理性で受け入れられても、救いは理性では受け入れられません。 世界を作った神が、ぼろきれのように十字架で殺される。 どうしたらそれを受け入れることができるでしょうか。それは理性ではなくて、信仰によってでしか受け入れることはできません。 キリストが私のために死んでくださった。これを心から信じるならばすべての罪が赦され、永遠のいのちを持つ。 理性を誇りとする人々からしたら、馬鹿馬鹿しいことです。しかし信仰によって、神に捕らえられた者、それがクリスチャンです。 だからこそ、そこから続くイエス様の言葉は、人の努力ではなく神の恵みという文脈の中で受け止めるべきものです。 24節、「それから、イエスは弟子たちに言われた。 『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」 3.  「だれでもわたしについてきたいと思うなら」。「思うなら」という言葉を使ってはいても、人の思いや情熱による条件ではありません。 クリスチャンは、イエス・キリストを信じて救われました。それは、自分の頭で理解して、信じたということでは決してないのです。 信仰によって、神のあわれみによって、頭ではなく神の御霊にとらえられたからこそ、私たちは「イエスは主です」と告白しました。 イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについてきなさい」と言われました。 それは特別なクリスチャンの生活ぶりではありません。聖霊にとらえられて神のものとなった、すべての者にあてはまる生き方です。 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」という、直前のことばを思い出してください。そこと深く結びついています。  自分を捨てる。自分の十字架を負って、キリストについていく。 それは寝る間も惜しんで伝道に明け暮れる生活ではありません。人のことではなく、イエス・キリストのことをいつも思う生活です。 イエス・キリストが犠牲を払って、滅びから買い戻してくださったほどの者、 この世界のすべてを引き換えにしてもまだ足りないほどの重い価値をもった者、それがあなたです。 イエス・キリストは、あなたという失われた宝物を買い戻すために、何をしてくださったのでしょうか。 私のためにどれほどの恥を忍ばれたのか。どれほどの嘲りを受け止められたのか。どれほどの傷に甘んじられたのか。 死に至るまで苦しみの杯を飲み干されたのか。神の犠牲と苦しみをいつも心に映しながら生きていこうではありませんか。  自分の十字架を背負って歩んでいく道は、神の愛と苦しみを心に映しながら、神の生き方を模範とする生き方です。 そこには、人が憧れ、うらやむような輝きや誉れはありません。キリストが歩まれた、迫害と苦しみの道と同じだからです。 しかしどんなに嘲られ、傷つけられ、苦しみを受けたとしても、それはキリストの愛をかみしめ、苦しみを分かち合う道そのものです。 そしてその報いこそ、イエス様が約束された「まことのいのち」です。それはこの世界を手に入れても釣り合わないほどに価値あるものです。 このまことのいのちは、決して遠い未来に与えられるのではありません。いま、信じる者のなかにすでに与えられています。 最後にイエス様はこう言われました。 「ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」 キリストの救いに捕らえられた人は、地上の死を経験することはあっても、決して永遠の死を経験することはないのです。 そして私たちは、すでに今、永遠のいのちを手にしています。ひとり一人が、このいのちの喜びに満たされて、歩んでいきましょう。