恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.6.10「心貧しきがゆえの幸い」(マタイ4:23-25、5:1-3)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

毎日、家族のために栄養バランスを考えた献立を考えて、食事を用意しているお母さんがいました。

そんなとき、家族がもう一人増えました。弟が生まれたのです。家族は心から喜び、成長を祈りました。

そしてお母さんは、末っ子のための乳児食と、家族のための食事の両方を準備するようになりました。ごく自然なことです。

 しかしこれを礼拝説教にあてはめてみるとどうでしょうか。

求道者(乳児)と信徒(他の家族)が同じ食事を提供されているというのが、日本の大部分の教会の礼拝の姿です。

それが教会の一致だとか、「子どもと大人一緒の礼拝」だとか言われます。

でも説教で人は養われるとすれば、求道者向けのものと信徒向けのもの、それぞれが必要なのではないでしょうか。

乳児が大人向けの食事を食べられるはずがなく、同時に大人が乳児向けの食事で満たされるはずがありません。

 この、どの教会の礼拝でも見られるであろうジレンマは、だいたいの場合、大人のほうが譲歩します。

「先生、求道者の方にもわかりやすい話をしてください」と言われたことがない牧師はいないはずです。

しかしそれは求道者を配慮したものであっても、「私たちへの食事は必要ありません」と言っているのと同じなのです。

大人は少し食事を抜いたからといってすぐに健康を崩すことはありませんが、それも限界があります。

 牧師にとって、主日礼拝は信徒をみことばによって養育する時でもあります。求道者だけではありません。

もし教会員が礼拝説教で十分に養われなければ、ディボーションは空腹を満たすための間食のようになってしまいます。

しかし現実的には、一つの説教で、信徒と求道者それぞれの必要に向き合わなければならないのが日本の教会の現実です。

どこか釈然としない思いを抱きながら、説教者は言葉を磨き、選び、祈りつつ準備します。ただ聖霊が働いてくださることを信じながら。

週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』4章23-25、5章1-3節 

1.

 イエス様の最初の宣教活動において、人々のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直されたという姿をマタイは強調しています。

さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人、あらゆる人々がイエス様によっていやされました。

しかしたとえそれがいやされたとしても、イエス様から見て人々はいまだ凍えて震え続ける、迷子の羊のようでした。

健康上の不安は取り除かれたとしても、彼らの心の中にはいまだに不安が残っている姿をイエス様はご覧になりました。

だからこそ、山に登り、従って来た老若男女に向かって、彼らの人生に平安と励ましを与えるみことばを語られました。

しかしその始まりの言葉は、何と謎に満ちていることでしょうか。心の貧しい者は幸いです、天の御国はその人たちのものだから、と。

「心が貧しい」人がなぜ幸いなのか、だれもが頭を抱え込むでしょう。

この言葉は、愛情に欠けた人や、金銭に汚い人への批判として私たちは使うからです。

なぜこんな人たちが幸いで、しかも天の御国はこんな人たちのものなのか。

天の御国についてよくわからないが、少なくともそんなところには行きたくないな、と思う人さえいるのではないでしょうか。

 ここで「貧しい」と訳されている言葉は、もともとは「縮こまる」とか「うずくまる」という動詞から来た言葉です。

それは、ただ貧しいというだけでなく、乞食、物ごいを表す言葉として使われました。

背骨が折れそうなくらいに身を縮こまらせて、地面にうずくまり、通行人から何かを恵んでもらう、乞食、物ごいの姿です。

「心の貧しい」とイエス様が言葉を出したとき、聴いている人々はこの乞食や物ごいの姿を必ず連想したはずです。

そのうえで、あなたの心がその乞食、物ごいのようだと認めるならば、あなたはむしろ幸いなのだ。

イエス様のこの短い言葉の裏に隠れている思いを、こんな言葉で表してみます。

 確かにあなたはわたしに悪霊を追い出され、病をいやされ、痛みを取り除いてもらったね。

でもわたしがあなたに与えようとしている幸いはそんなものではない。病は年を経ればまた現れ、老いを重ね、死が訪れる。

しかし自分がみじめなものにすぎず、神の助けを必要とする、まさに乞食や物ごいなのだと認めるならば、あなたの人生は裏返るのだ。

あなたの生きている世界がどれだけ不平等で残酷な世界であろうとも、自分のみじめさを受け入れて神にしがみつくとき、

あなたはすでに天の御国の国籍を持っているのだ、と。

2.

 裸の自分は、物ごいのように神にしがみつかなければ生きていけない者なのだと認めるのは、生まれつきの罪人にとっては、つらいことです。

だからほとんどの人々は、それとまったく逆の生き方を選びます。「神になんか頼らなくても、私は自分の力だけで生きていける」。

「神を信じるなんて、弱い人間のすることだ。努力で身を立てていく私には、神や救いなど必要ない」。

しかし本当にそうでしょうか。

私たち人間の力には限界があります。限界どころか、永遠無限の神に比べたら、私たちの存在など無に等しいものです。

しかしそんな虫けらのような者を、神はあわれみ、手を差し伸べてくださいました。

イエス様は言われました。自分が乞食、物ごいのように、神の前ではむなしい者にすぎないことを認め、神にしがみつく人よ。

それはまさに心の貧しい人。だがそのような人こそ、むしろ幸いなのだ、と。

 人はだれもが幸せを求めています。

そのために人は家族のぬくもりを求めます。家族を養うためにお金を求めます。お金を安定して得るために仕事を求めます。

しかし家族のために見つけた仕事なのに、その仕事ゆえに家族との交わりを失ってしまう人もいます。

お金があれば幸せになれると信じている人々がいる一方で、ある余るほどのお金を持っていながら自分を不幸としか思えない人々もいます。

 問題は、人々が信じ、追い求めている「幸せ」が、じつは作られた幸せでしかないということ、

さらに人々はその事実に気づかないまま、消えてしまうものを追いかけているということにあります。

本当の幸せは、外からやってくるものではなく、内からあふれ出てくるものです。

外からやってくる幸いは一時的です。それは水面に映った満月の影です。

小石ひとつが投げ込まれるだけで、いや、小さな風が起きただけで、簡単にかき消されてしまいます。

3.

 しかしイエスさまが与えるまことの幸せは、内側からあふれ出るものです。

それは私たちの外側で何が起ころうとも、決してかき消されることがありません。

イエスさまはそれを「天の御国」という言葉で言い表されました。

しかし「天」とついていても、それは私たちの頭上にはありません。私たちの内側にあるのです。

「天の御国」とは、死者が安らいでいる天国のことではありません。いま、神を信じた者たちの心の中に生まれています。

心の真ん中にイエス・キリストを迎えることに始まり、私たちの内側、人生、生活のあらゆる所で神が主権者であると認めましょう。

認めると言っても、人生の主導権を握ったまま、ふんぞり返り、口先だけで神を信じる、というのではありません。

まさに乞食のように、物ごいのように、私にはあなたが必要です、あなたしか私を助けてくれる方はいないのです、とただ神にしがみつくのです。

 あなたは心の貧しい人ですか。自分自身を貧しい者、欠けている者、罪にまみれた者として自覚していますか。

そこから助け出してくださる方はただ神さまだけという確信がありますか。

もしそうならば、あなたはイエス様からこう呼びかけられる資格があります。

「この世で一番幸いな者よ」と。その幸いは、たとえあなたの上に何が起こっても、取り去られることがありません。

この「幸い」を受け取るために必要なのはただひとつ、私の罪のためにイエスが十字架で私の身代わりとして死んでくださったと信じることです。

その時、あなたは何が起こっても取り去られることのない幸いが、内側から溢れ出ているのに気づくでしょう。

そしてその幸いは、あなただけに満足を与える小さなものではありません。

あなたの内側から溢れ出て、周りの人々をも潤していきます。そしてついにはこの渇いた世界すべてをも満たしていくものなのです。

あなたが神を信じ、天の御国を自らの内側に受け入れるとき、あなただけでなくあなたの周りの人々にも幸いを与えていきます。

どうかひとり一人が、この喜びに満ちた知らせを心にかみしめて歩んで行かれますように。