恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.5.13「母のような父の愛」(ルカ15:11-32)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 私の妻、ゆ○りはおとなしそうに見えて、じつはゴールド系が大好き。思い出の場所はドゴール国際空港。行ったことないけど 録画データの入った金ラベルのSDカード(↑こんなやつ)を隙あらば奪ってしまうので、最近とみに更新が遅れます。  さて、今週の礼拝では二組の夫妻の献児式を行いました。 そのため今日の説教は両親に対する具体的な勧告になっています。 プライバシー保護のために、子どもたちの実名は△△、□□としたら、なんか虫食い算みたいな説教原稿になってしまいました。 さらにそれぞれのお父さんはじつの兄弟ですので、説教ではどちらも名字は○○という共通の伏せ字になってします。ああ、紛らわしい。 ○○家の若奥様二人に証しをしていただき、それからそれぞれの赤ちゃんの頭に私が手をおいて祝福の祈りをしました。 若奥様方の証しもすばらしい内容でした。録画してありますが公開の許可をとっておりませんので、メッセージから想像してください。 週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』15章11-32節  1.  今日は○○△△くんと○○□□ちゃんの献児式を行いました。 先ほど、ご両親からそれぞれ証ししていただきましたが、ひとつの共通したテーマに感銘を受けました。 それは、△△、□□は、すでに私たちに十分なほどに恵みを与えてくれた、という感謝があふれているということです。 △△くんは今月1歳の誕生日を迎え、□□ちゃんは生まれてからようやく半年。 二人とも、まだ満足に言葉も話せず、立ち上がることもできません。しかしすでにふたりはとんでもなくすごい働きをしてくれている、 それは、家族を改めてひとつにする、という尊い働きであって、それはこの赤子二人を通して神様が与えてくれた恵みなのだ、と。 それはお母さんだけの感想ではなく、お父さん、そしてお姉ちゃんたちに共通した思いでありましょう。  英語と日本語が混じった表現ですが、「DoingではなくBeing」とう言葉を思い出しました。 Doingとは、何かをすること。それに対してBeingとはそこに存在すること。 私たちは大人になればなるほど、Doing、何かをする、ということにばかり目がいきます。 定年になって昼間から茶の間で寝そべっているご主人に、「そこにいてくれるだけでありがとう」と目を細めてくれる奥さんはめったにおりません。 「そんなに暇なら、ちょっとは家事も手伝ってよ」。 これがDoingです。何かをするから、何かをしてくれるから、存在価値があるというわけです。 ところが○○家は(どっちも○○家ですが)、いまBeingのすばらしさに目覚めているのです。 △△くんは洗濯もできません。□□ちゃんはお掃除もできません。しかしそれよりも、もっと大きなことを家族に与えてくれている。 存在そのものが祝福であって、そこにいてくれるだけで、家族の思いをひとつにしてくれる、と。まさに子どもは神様からの祝福です。  とはいえ、二人がこれから大人に近づくにしたがって、だんだんBeingからDoingのほうへと、家族の目線も移っていってしまうのですが、 だからこそ、いまこのとき、神様が△△と□□を私たちに与えてくれて、この子の人生は神様のものです、と告白する献児式が重要なのです。 願わくは、そこにいてくれてありがとう、というこのBeingの精神を、 △□さん(母親1)、○△さん(母親2)はそれぞれ□△君(父親1)と△○君(父親2)にも注いであげてください。 2.  さて、今日は母の日でもあります。 母の日、そして献児式というふたつのキーワードを思い巡らすなかで、今日の聖書箇所が示されました。 いわゆる「放蕩息子のたとえ」と言われる、イエス様が語られたお話しです。 とはいえ、ここには母は一切出てきません。 しかし、父なる神のたとえとして登場している、この父親の姿は、母親がわが子に注ぐ無償の愛をも伝えています。  今日の聖書箇所を理解するうえで外せないのは、イエス様がこれを語られた当時のユダヤでは、父の権威は絶対的であったということです。 まだ父親が生きているのに、財産を分けてくださいと言ってくる次男坊。その言いなりになってお金をわけてやる父親。 聞いていた人たちにとっては、「こんな父親、あり得ねエ」と思わずにはいられないほど、常識から外れた物語をイエス様は語られました。 人々が共感できないたとえ話などというのは、たとえ話とは言えません。 しかしイエス様は、私たちの常識を越えた神の愛を示されたのです。 昔も今も、人々の抱く神のイメージは、罪を厳しくさばき、間違いを許さない、絶対的な父親のようなものです。 しかしイエス様はこのたとえ話を通して、まことの神は絶対的な存在ではあっても、決して厳しく断罪するだけの方ではないと語られました。 父なる神は、まるで母のような慈しみをもって、罪人を愛し、悔い改める者を許し、傷ついた者を優しく包んでくださる方なのだ、と。  今日の献児式は、子どもたちのためではなく、両親のためのものです。 親は、子供に責任を持っているがゆえに、愛し、しつけます。 しかしそれは自分の教育が正しいかどうか、絶えず悩む生活でもあります。 ですがご両親は、今日それぞれ△△くんと□□ちゃんを神様にささげました。 ご両親の重荷は、神が代わりに引き受けてくださいます。 父なる神は、母の優しさをも兼ね備えておられ、ささげられた子どもたちを最後まで見捨てずに育んでくださいます。 子供のゆえに悩むとき、この子は私のものではなく神様にささげられたものなのだという安心と信頼を忘れないでほしいと思います。  それは決して責任放棄ではありません。 ご両親にお願いしたいのは、子どもたちを、みことばによって育てるという決心です。 家庭では、毎日どんなに短い時間でも、家族で集まって礼拝を持ち、両親が子どもたちの礼拝を導いてあげてください。 また子どもたちが教会に繋がる秘訣は、両親が礼拝に出席できることを心から喜んでいて、子どもたちにもそれが伝わっていることです。 しかし家庭でも教会でも、いわゆる「いい子」として振る舞うことが大事ではありません。 そこにいるだけでありがとう。DoingよりBeingです。 どんな心の状態であっても、神様は私たちを愛しておられるということを伝えていきましょう。 父の愛と、母の愛をもって、私たちをいつも包んでくださる神様に信頼していきましょう。 この神様が、子どもたちを導いてくださいます。 3.  すべての人間は、神様に造られて、この世に生まれてきました。 罪を背負って生まれてくるのは事実ですが、それでも神にとって、すべての人間はひとりとして滅んでもいいような存在ではありません。 神は一人ひとりの罪人が、悔い改めてご自分のもとに戻ってこられるのをいつも待ち続けています。 このたとえ話の中に出て来る父親の姿は、まさにその待ち続ける神の愛を示しています。 そして放蕩息子が悔い改めて帰宅するのを待ち続けた父親の愛は、その兄が悔い改めて宴会に加わることも待ち続ける愛でした。  この兄息子は弟に腹を立てていたのではありません。むしろ弟ほどに愛されていないという、父親への不信感を露わにしています。 しかし父親は、兄息子にこう言いました。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」。 たかがたとえ話、されどたとえ話。 この父親の言葉には、イエス様が私たちにこれでもか、これでもかと伝えようとした神の愛が凝縮されています。 財産の分け前を使い果たした弟息子も罪人ならば、弟そして父親への不信感の中に留まり続けようとする兄息子もまた罪人です。 しかし神の愛は、そのどちらにも、どのような罪人にも向けられています。そしてすべての人間は、その罪人のひとりなのです。 しかし私たち、あらゆる罪人が救われるために、イエス・キリストは私たちの身代わりとして十字架について死んでくださいました。 この方を救い主として信じるときに、私たちは救われます。 家族みんなが、ともにイエス・キリストを信じて生きるなら、どんなにすばらしいでしょうか。 献児式は、まさに家族みんながイエス・キリストを信じて歩む入口でもあります。 そしてその入口を一度通るならば、それからどんなことがあっても、祝福はすべての親族に広がっていきます。 ぜひ、今日のみことばから、神の愛のすばらしさをかみしめましょう。 また△△くんと□□ちゃんのこれからの祝福のためにも祈りたいと願います。