恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.5.6「毒麦のままでは終われない」(マタイ13:24-43)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 更新が遅くなり申し訳ありません。週報はこちらです。 聖書箇所 『マタイの福音書』13章24-43節  序.  今日の聖書箇所は、「天の御国」についてのイエス様のたとえ話です。 しかし「天の御国」とは、信仰者が死んだ後に迎えられる、いわゆる「天国」のことではありません。 では、「天の御国」とは何でしょうか。それは「天」とついていても、じつは地上のことを言っています。 天の御国、それは、人が自分の人生を神様に明け渡す、まったく新しい生き方のことです。 神を心から信じるとき、私たちは人生の主導権を自分自身から神様へと譲り渡します。 今までは、私が大事、私の生活が大事、という人生だったのが、神が喜ばれることは何かということをいつも考えながら歩むようになります。 地上の世界に生きていながら、人生の目標はこの地上での成功や安全ではなく、天の父なる神へと向かうようになります。 それを指してイエス・キリストは「天の御国」、または「神の御国」と呼んでいるのです。  私たちがイエス・キリストを信じるとき、私たちは地上の住人ではなく天の住人になっています。 肉体と生活は地上に置きながらも、すべての望みを天におくようになります。 だから人生に不幸が起きても揺るぎません。病気や事故を恐れて生きていく必要がありません。 そしてイエス様は、その天の御国に、人生の軸足を移した人は決して何があっても失望することがない、ということを教えてくださっています。 キリストの肉と血をかみしめる聖餐礼拝のこの日、天の御国に入れられた祝福を今一度おぼえていきましょう。 1.  ある人が自分の畑に麦の種を撒きました。しかし夜のあいだに、敵が毒麦の種も撒き、やがて良い麦に混じって毒麦も生えてきました。 イエス様がこのたとえ話を通して何を言おうとしているのか、弟子たちにはまるでわからず、あとでイエス様に尋ねました。 するとイエス様の答えは明快でした。良い麦の種を撒いた、主人とは「人の子」、つまりイエス・キリストのことであり、「畑」とは全世界。 そして良い麦とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことである、と。 ある人は、この良い麦は伝統的・正統的な教会で、毒麦は統一協会やエホバの証人のような異端であると言います。 しかしみことばを注意深く読みましょう。畑はこの世界であり、畑に蒔かれたのは良い麦か、毒麦の二種類のみです。 キリスト教の中で良い麦、毒麦二種類に分けられるのではなく、この世界のすべての人々が良い麦か毒麦に分けられています。 良い麦とは、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得た私たち、そして毒麦とは、それ以外のすべての人々を指すのです。 誤解と批判を恐れずにはっきりと言うならば、毒麦とは、イエスを救い主と信じないまま、死んでいく、すべての人です。 悲しいことですが、キリストを救い主として信じないならば、たとえどんなにすばらしい人格の持ち主であっても、悪い者の子どもたちです。 悪い者とは悪魔のことであり、その子どもとは悪魔に人生を支配されている者のことです。 生まれつき人間は、悪魔に自分の人生をいいように扱われていることに気づきもしない、そして自分は自由だと勘違いをしています。 イエス・キリストを信じて新しいいのちに生きる者か、信じないまま地上のことしか見えていない者か。どちらの人生が幸いでしょうか。 人生のすべての問題の解決は、キリストを信じるところから始まります。 そこをぼかしたままでは、一時的に苦しみは去っても、ほんとうの解決はありません。 すべてが手遅れになる、世の終わりの刈り入れの時がやってきます。 その日が来るまでに、天の御国の子どもとなるか、それとも悪魔に引きずられて自らも滅びの火に引き込まれるか、選ばなければなりません。 教会に導かれているみなさんが、答えを引き延ばしたまま、永遠に答えを失うことがないようにと、ひたすら願います。 2.  イエス・キリストは良い麦と毒麦のたとえのあとに、天の御国についてふたつのたとえ話をなされました。 ひとつはからし種のたとえ、もう一つはパン種のたとえです。 からし種は、一度現物を見せてもらったことがありますが、まさに七味唐辛子そのもののような、細かい種でした。 しかしその種が地に撒かれると、大きく成長し、鳥がそこに巣を作るようになるとイエス様は言われました。 またパン種は、いわゆるイースト菌のことです。 小麦、大麦をこねた生地にイースト菌を入れて発酵させると、普通の菓子パンは生地の二倍、食パンは四倍に膨れるそうです。  このふたつのたとえは、私たちがイエスを信じて天の御国の一員となるときに起こる、すさまじい変化を、それぞれ別の視点から教えています。 からし種のたとえは、私たちの内側にある信仰が、からし種ほどの小さなものから、果てしなく大きなものへと成長していく霊的変化を指します。 そしてパン種のたとえは、私たちの外側は小さいままでも、この世界の、凝り固まって動かないようなあらゆるものをも変えていくことができること。 3サトンの生地というのは、じつに40リットル。生地が40リットルに膨らんだのではありません。 もともと40リットルもある生地が、2倍から4倍に膨れたら、いったいどれだけでしょうか。お風呂一杯のパンです。 しかしイエス様はあえてオーバーすぎるほどのパンの量を強調し、私たちの信仰が山をも動かすことを教えてくださいました。 イエスを信じるならば、必ずそれが私たちの生活の上に起こります。それは決して変わることのない、神様の約束です。 3.  最後に、もう一度、毒麦のたとえについて学びましょう。 毒麦を抜くことができないのは、良い麦と形がそっくりで見分けがつかないだけではなく、地面の下で良い麦と根が絡み合っているからです。 もし良い麦と毒麦を見分けることができたとしても、それを強引に抜こうとすれば、良い麦までも引き抜いてしまう。 主人がしもべたちに、収穫するまで待ちなさいと言ったのは、そういう理由があったからでした。  良い麦がクリスチャンのことを指していると言われても、自分のような弱いクリスチャンが果たしてそうだろうか、と悩む人もいるかもしれません。 確かに信仰を持っても、みことばに従いきることができなくて、妥協を繰り返してしまうことがあります。 おそらくその大きな理由は、人間関係の中にあると思います。 もし私たちが人里離れたところに一人で住んでいたら、人間関係で悩むことはないでしょう。 しかし実際にはそうはいきません。生活があり、家族があり、会社があり、ご近所づきあいがある。 それはまさに地面の下の見えないところで、クリスチャンの生き方とそうでない人の生き方という根が絡み合っているのです。  しかしイエス様が語られた、世の終わりに起きることを、心の中にかみしめましょう。 たとえこの世では根が絡み合っているような歯がゆさと後ろめたさを感じる人生でも、最後にはキリストによる正しいさばきが下されます。 しかし私たちは決して悪くさばかれることはありません。私たちはキリストを信じるならば、たとえどんな者であったとしても、御国の子どもです。 しかしキリストを信じることがなければ、終わりの日には御使いによって刈り取られ、決して消えることのない炎へ投げ入れられてしまいます。 神はすべての人が悔い改めて救われることを願っておられます。だからこそ刈り取りの日を、今もとどめてくださっています。 しかしもしかしたらすでに穂は色づき、かまが入れられる日は近いのかもしれません。 だからこそ私たちは今日、イエス・キリストを心に受け入れましょう。 あなたは良い麦ですか、それとも毒麦ですか。イエス・キリストを救い主として信じるならば、あなたは良い麦として天の御国の一員です。 どうか今日が決断の時となることができるように。