恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.4.1「よみがえれ、わが内なるみことばよ」(ルカ24:1-12)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。イースターおめでとうございます。 ご近所に配るイースターエッグが余りまして、あとは牧師家で 処分 美味しく頂戴いたしました急激な大量の卵摂取によるコレステロール値の上昇が心配です。これが十字架を背負うという生き方なのですね。うっぷ  ところで、今回のメッセージの導入で「4/1とイースターが重なるのは62年ぶり、次は11年後」という話をしています。 いちいちカレンダーを調べたのかよ。暇だなあ。なんて思った人のために先に種明かしをいたしますと、 今橋朗『礼拝を豊かに』(日本基督教団出版局)の巻末に、なんと200年分のイースターの日程が掲載されているのです。 インターネットでもある程度検索はできますが、1900~2099年までのイースターが一目瞭然なのは、アキラだけ。 なぜそんな長期にわたる一覧表を載せているのかは謎ですが、ありがとうアキラ先生。いくら長生きしても平気です。 ちなみに2099年のイースターは4/12です。ねっ、便利でしょ。週報はこちらです。 200年分のイースター一覧表を載せたいところですが、著作権侵害の恐れがありますので、本買ってください 聖書箇所 『ルカの福音書』24章1-12節  序.  イースターおめでとうございます。 先週は、イエス・キリストが十字架にかかる苦しみをおぼえる受難週でした。みなさんは先週をどのように過ごされたでしょうか。 とくに、今年は、3月の最後、いわゆる年度末と言われる一週間とこの受難週が重なってしまいました。 私に関して言えば、引き継ぎやら新年度の準備やらでばたばたしたなかで、今日のイースターを迎えてしまいました。 牧師になってから17回目のイースターになりますが、こんなに心の準備ができていないイースターは初めてです。 4/1という新年度の始まりに日曜日が来て、しかもそれがイースターという日はいったい何年ぶりなのだろう。 ふとそう考えて、カレンダーを調べてみました。じつに、同じような状況が起きた年は、1956年、62年ぶりのことでした。 こんなに忙しいのは初めてだわ、と思うわけです。牧師になるどころか、生まれてもいません。 しかし安心してはいけません。 前回から今年までは62年ぶりですが、次に4/1がイースターという日は、わずか11年後の2029年にやってきます。 次こそは、年度末という名の魔物に飲み込まれそうになっても、十分に心の備えをして4/1のイースターに臨みたいと、今から思わされます。 1.  それにしても、カレンダーを調べながら思いました。 年度末なのは確かだが、それにしたってふだんから神さまと歩調を合わせて歩んでいけば、年度末のせいにしなくてもよいのに、と。 そうです。ほんとうは年度末なんていう魔物はいません。私自身の心と信仰のありようです。 今年のイースターが4/1にやってくることはずっと前からわかっていたのに、どうしてばたばたしているのか。 その答えも知っています。それは私の目が神のことよりも日常の生活のほうにばかり向いているからです。 ことあるごとにみことばに頼るよりも自分の判断に従って動いているから、みことばの恵みが生活の中からそぎ落とされているのです。  今日の聖書箇所では、イエスさまに葬りの油を塗るために墓へと向かう女性たちが登場します。 このルカ福音書だけでなく、すべての福音書に描かれている光景です。 しかしその中でルカがとくに強調しているのは、「女たちはイエスのみことばを思い出した」という一文です。 確かに彼女たちはイエス様への愛を忘れていませんでした。信仰によって、命の危険を顧みず、墓へと向かいました。 しかし、その心のうちからは、みことばが抜けていたのです。 彼女たちの関心は、ほかの福音書で書かれているように、「あの墓の重い石の扉を、いったい誰が開けてくれるだろうか」ということだけでした。 あらかじめ彼女たちにイエス様自身がこう語っておられました。わたしは十字架にかけられたあと、必ず三日目によみがえる、と。 しかしその約束のことばが彼女たちの記憶の中からすっかり抜けていました。 2.  みことばがなければ、どんなに愛や信仰に頼っているように見えても、問題を乗り越えていくことができません。 みことばに頼らなければ、そこには常に信仰の皮をかぶった言い訳と妥協があり、信仰によって勝利したという爽快感がありません。 何とか切り抜けて、それで終わりです。 クリスチャンがどんな困難なときにも自然に笑みがこぼれるのは、自分ではなく神が道を開いてくださるという圧倒的な信頼感があるからです。 自分の力で戦おうとする人は、歯をくいしばって、とても笑みを浮かべる余裕などありません。 だから、自分の手から現実をコントロールしようとする手綱を外しましょう。神が導いてくださることに絶対的な信頼を置きましょう。 そうすれば、あなたの生き様を見て、人はおのずとイエスをあがめるようになるのです。  墓に近づいてみると、扉の石をだれが開けてくれるだろうか、という現実問題は片づいていました。神が道を開いてくださったのです。 しかし墓の中に入ってみると、そこにはイエスの亡骸は消えていました。彼女たちは墓の中を一生懸命に探します。 しかし見つかりません。墓のとびらの石を開けさえすれば、イエスと出会えると思っていたのに。 扉の石という問題がクリアされているにも関わらず、彼女たちは途方にくれてしまいます。 もし彼女たちがここでイエスが生前、ガリラヤで語られていたみことばを覚えていたら、このからの墓は彼女たちの喜びの舞台になったことでしょう。 みことばがないところでは、どんなに現実が好ましく変わっていったとしても、悲しみに引きずり込まれます。 この空っぽの墓はまさにそのような状態でした。 少なくともこのイースターのメッセージを聞いた後、私たちは古い人のまま、現実を見ることは今日限りにしましょう。 あなたはイエス・キリストの十字架と復活を信じ、まったく新しい人となりました。 新しい人として、現実の中で実現しているみことばの約束を見るのです。 3.  しかし神のあわれみは尽きることがありません。途方にくれていた女たちの前に、神は御使いを遣わしてくださいました。 そして次のことばは象徴的です。「女たちはイエスのみことばを思い出した」。 イエス様のみことばを思い出したとき、彼女たちの中に、改めて変化が生まれました。このすばらしい知らせをみなに伝えなければ、と。 しかしほとんどの弟子たちが、イエス様がたしかによみがえったという話をたわごとのように思い、信じようとしませんでした。 その中には、イエス様が十字架で絶命するところを遠くから見ていた唯一の弟子ヨハネも含まれていました。 彼をはじめとして、使徒たちはこう思っていたでしょう。イエス・キリストは確かに死んだのだ。いや、イエスを裏切った自分たちが殺したのだ。 彼らの心の痛みは同情に値しますが、しかしそれでも私たちは、彼らを含めて、みことばを持っていない人々にこう言わなければなりません。 たとえ昨日までに経験してきた現実がどれほど残酷で、みじめで、忘れようとしても忘れられないものだったとしても、 イエスさまのみことばの約束は、私たちの中に植えつけられてしまったすべての不安から解放してくださるのだ、と。  あなたは、目に見える現実にとらわれて、見えない神のことばを信じることができないかもしれません。 たとえ昨日までがそうであったとしても、今日神とその約束のみことばを信じるならば、この世界のすべての色が変わっていきます。 「復活」とは他ならぬ私たちがイエス・キリストとともに生まれ変わることです。 現実がどうあろうと、ただ神の約束だけを信じる。復活の意味はそれです。  使徒パウロは、もし復活がなければ私たちの信仰はむなしいと語っています。 イエス・キリストが私たちの罪のために十字架の上で死なれた。じつはそこで終わってはならない、というのです。 さらに復活という喜びがいつも私たちの中で確かなものとされていくために、いつも口ずさまれ、繰り返されるように、とパウロは勧めます。 そうでなければ、私たちは地上では適当に折り合いをつける生き方を繰り返したあげく、 最後は天国の扉のすき間に滑り込んで何とかセーフという中途半端な信仰者のままです。 せっかく救われたのだから、胸をはって凱旋していくクリスチャンになりたいものです。 そのために、十字架、復活、そしてイエス様が約束してくださったみことばをいつも心に刻みつけながら歩んできましょう。