恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.3.18「祈りのチカラ」(マタイ26:36-46)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 今週の水~木は、横浜の某コンベンションセンターにてわが同盟教団の総会が開催されるので行ってまいります。 帰ってくるとヘロヘロになって、そのまま寝込んでしまうのが常ですので、今のうちに急いで更新しておきます。 教団総会でようやく人事発表です。それが終わってようやく村上の新任教師もオープンにできます。 ・・・長かった・・・今だから言いますが、ストレスでなんとかディスペプシアとかいう病気にもなりました。もう直ったけど。兼牧って大変ですね。 というわけで来週は村上で歓送会です。ボクの。自分で自分の歓送会を言い出すのも勇気がいりましたが。週報はこちらです。 聖書箇所 『マタイの福音書』26章36-46節  序.  「お祈りメール」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。 その温かいイメージとは裏腹に、企業の不採用通知を指す言葉です。 不採用を伝えるメールの最後に、「○○様の今後のご活躍をお祈りしております」とまとめているので、「お祈りメール」と呼ぶそうです。 しかしクリスチャンが「お祈りメール」と聞けば、同じ兄弟姉妹から「祈っています」という励ましの言葉を思い浮かべると思います。 「お祈りしています」というこの一つの言葉は、この世の人々とクリスチャンとのあいだではまったく受け取り方が違うのですね。 この世の人々にとって、「お祈り」とは気休めか、悪い知らせをオブラートに包むような意味でしかありません。 しかしクリスチャンは、文字通り働く、祈りの力を信じています。 祈りの力を信じ、実際に体験することができるのは、クリスチャンの特権です。 私たちはなぜ「祈ってください」と頼むのか。あるいは他の人に対して「祈っています」と励ますのか。 それは、「祈り」がこの世の現実を変える神の力である、と本気で信じているからです。 これは世の人々にとっては愚かに見えます。しかし私たちにとっては神の約束です。 求道者のために、別帳会員のために、他の教会のために、隣町の一軒一軒のために、私たちは名前を挙げて祈っています。 神は、私たちの祈りを取るにたりないものとは決して言われません。 どんな小さな祈りも、神の御前でかぐわしい香としておぼえられています。 そしてイエス・キリストがゲツセマネの園で弟子たちに語った言葉からも、私たちは祈りの力を学ぶことができるのです。 1.  エルサレム郊外にあるゲツセマネの園で、イエス・キリストは弟子たちに言いました。 36節、「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。 そしてイエスは弟子たちの中からペテロ、ヨハネ、ヤコブの三名を選び、彼らを連れて園の奥に入っていかれました。 この三人は、12人の直弟子たちの中で自分たちだけが選ばれたことに誇らしく思ったでしょうか。 いいえ、彼らは決して見たくはなかった、イエス様の姿を見るハメになりました。 まるで神の子にふさわしくない、弱々しい言葉をはくイエス様の姿を見ることになりました。 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と。  今、目の前にいるイエス・キリストは、彼らの知っているイエスとは明らかに違いました。 パリサイ人に対しても一歩も引くことのなかった神の御子が、まるでおびえた子犬のように悲しみもだえられています。 主は三人に懇願します。「ここを離れないでくれ。わたしといっしょに目をさましていてくれ」。 日本語の翻訳では味気ない命令口調に聞こえるかもしれません。 しかしここで主が語られている、弟子たちにすがりつくイエスの姿から目をそむけてはなりません。 私をひとりにしないでくれ。わたしと一緒に、目をさまして祈ってくれ。 そのようなイエスの姿につまずきを覚える人もいるかもしれません。 だとしたら、その同じつまずきを、この三人の弟子たちも感じていたことは確かなことです。 2.  私たちクリスチャンは、イエス・キリストがまことの人として地上に来られた神の子であると告白します。 では、「まことの人」とはどういうことでしょうか。完璧な人間であったということでしょうか。 人としての感情を超越し、どのようなときにも理性的に振る舞うことのできる人だったということでしょうか。 もちろんそうではありません。 聖書がキリストを「まことの人」という理由は、人を例外なく奴隷とする「罪」の恐ろしさを地上の誰よりも理解していたということです。 イエス・キリストは罪を犯されない方でした。 しかし罪の結果が永遠の死であることを、地上のどの人間よりも深く受け止めていた人でした。  すべての人間は、かつての私たちがそうであったように、自分が罪人であることを受け入れようとしません。 そして受け入れたとしても、その罪を小さく考えて、罪意識を薄めます。 「みながやっているんだから」「仕方がなかったんだ」という具合にです。 しかし罪とは決してそんな生やさしいものではないことをイエスは誰よりもよく知っておられました。 ご自分が十字架のうえで命を捨てるしか、人間がこの罪から解放される手段はないということを知っておられました。 だからこそ、そのとてつもない重さを前にして、イエス様は三人の弟子にだけ、まことの人としての弱さをさらけ出します。 「私は悲しみのあまり死にそうです」と。  全人類の罪のために、今自分が身代わりとなる時がやってきた。この地上の誰も、その苦悩を理解できるものはいない。 全人類の身代わりとして父なる神から引き離されてしまうという悲しみ。十字架の上で愛する父からのろわれた者となる悲しみ。 弟子たちは、その苦しみの深さはまったくわからない。しかしキリストは、それでも弟子たちに懇願するのです。 どうか目を覚ましていてくれ。私をひとりにしないでくれ。一緒に祈っていてくれ。あなたがたの祈りが、今の私には必要なのだ、と。 3.  ゲツセマネの土の上にひれ伏して、祈ります。その祈りの言葉は、人としての弱ささえにじみ出たものでした。 もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように、と祈り、「父よ。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と願う。 この時とは何か。それは永遠の昔から父なる神と共におられたイエス・キリストが、神から捨てられ、切り離される時。 この杯とは何か。罪をもって生まれ、罪を犯し続け、なおかつその罪を認めようとしない全人類に向けられた神の怒り。 その怒りの杯を十字架の上で身代わりになって引き受けること。 それは、イエス・キリストでさえ過ぎ去るように、取りのけてくださるように、と願わざるを得ない苦しみ。死ぬほどの悲しみ。 いったいだれがその苦しみを理解できるのか。だれがその悲しみを知り得るのか。 だれもイエスの苦しみがわからない。だれもイエスが向かう十字架の恐ろしさはわからない。 イエス・キリストは地上で何と孤独だったでしょうか。しかしイエスは弟子たちに願われた。 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。私の祈りの姿を目に焼き付け、私の祈りの言葉から学びなさい。 そしてイエスさまが父なる神に向かって語りかけた祈りの言葉は、私たちがどんな状況にあっても忘れてはならない言葉です。 「しかし、わたしの願うところではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と。 結.  私たちの祈りは、小さな祈りです。しかしそんな私たちの祈りを、主は必要としておられます。 神のみこころを成し遂げる最後のピースととして私たちの祈りがおぼえられているのであれば、私たちはもっと祈りたいと願います。 最近私は祈祷会の出席者が増えていることに喜んでいます。 もし日本にリバイバルが起きるとしたら、それは礼拝ではなく祈祷会から始まるはずだからです。 なぜなら教会二千年間の歴史を見ても、つねに信仰復興は祈り会の中で始まっているからです。 まず祈祷会で聖霊の炎がともされ、それが礼拝に飛び火します。 そしてそれぞれの信者の生活を燃やしていくとすれば、私たちはぜひ集まって祈ることの恵みをもう一度おぼえていきましょう。 祈りは勝利をもたらします。弟子たちは、イエスがこの長い祈りを通して、まったく変えられる姿を見ました。 雨に濡れそぼち子犬のように途方にくれる姿から、たてがみを振るわして咆哮をあげる獅子のように立ち上がる、その姿を。 46節、「立ちなさい。さあ、行くのです」。その姿が、やがてこの弟子たちをして、祈りの勇者と立たしめたのです。  罪を繰り返し己の弱さを嘆く者は、主の祈りの姿に学びましょう。 現実の戦いの中で疲れ果てた者は、主の祈りの言葉を口ずさみましょう。 そしてどんなに小さな者の祈りをも必要としておられる主をほめたたえましょう。 主は勝てり。ゲツセマネでの祈りを通して、十字架への恐れに対し完全に勝利されました。 私たちもその勝利に続くために、目を覚まして祈り続ける日々を歩んでいきましょう。