恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.1.7「従順がもたらした救い」(ルカ2:39-52)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 先日の礼拝では、当ブログをよくご覧くださっているという県外のご夫妻が出席してくださいました。 新来会者への挨拶に伺ったとき、うちの教会ではもろスベった説教と言われている「ボクはイサク」も三回見たと嬉しいお言葉。 礼拝前なのでポーカーフェイスを装いましたが、説教の間、心の中はちょっと高ぶってしまって大変でした。 振り返ってみると「豊栄の風」なんて、まず検索されそうもないタイトルをつけてしまったがゆえにアクセス数が激減した当ブログですが、 それでも毎週更新を待ってくださっている方もおられるかもしれませんね。いや、いるはずだ。いやいや、いてほしい。お願いします ところで昨日、妻がこんな名ゼリフを放ちました。「片付けるまでが聖礼典」。 祝日だからとのんびりしてて聖餐式のカップを片付け忘れていたところはありませんか~。スイマセン、うちの教会です。 週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』2章39-52節  序.  昔の記憶なので、あやふやなところもあるのですが、もう他の子どもたちがひらがなを書けるのに、私だけ書けないということがありました。 心配した母親が、小さな黒板を買ってきて、私の前で必死になって、チョークで「あ」とか「お」とか書いていました。 「書いていました」などと言うと、まるで他人事(ひとごと)のようですが、その頃の自分の感覚は、何というか、着ぐるみの中のような感じでした。 「あ」とかじつは読めるのです。読めるけれど、口から言葉として出てこない。 言語障がいというわけではなく、年相応の普通の会話はできます。 しかしひらがなが読めても、口から出てこない。書き方も知っているけれども、手が動かない。 着ぐるみの中から外をのぞいている、頭は働くけれどもひらがなを書こうとすると、口も手も動かない。そういう感覚です。 突然それが書けるようになったときの感覚は、幼いながらも昨日のことのように覚えています。 ある日、突然口と手が動くようになって、五十音一気に黒板に書きました。 しばらくの間、神童と呼ばれました。ような気がします。 1.  イエス様の幼少時代について、具体的なエピソードは、今日の箇所以外には聖書に載っておりません。 12歳になるまで、いったいどんなことがあったのか。30歳になって公生涯に乗り出すまでは、どうなのか。 思春期特有の悩みはなかったのか。反抗期は訪れなかったのか。 ひとつだけ確かなことは、イエス様は一生涯、神の子として罪を犯さなかったということです。 しかし罪は確かに犯されませんでしたが、いま私が振り返ったような、まるで自分が自分でないような感覚を知っておられたかもしれません。  というのは、イエス様は30歳になってはじめて神の啓示を受けて自分が救い主だと悟ったのではありません。 少なくてもこの12歳のときには、ご自分が神のひとり子であるという自覚を持っておられました。 しかし、ここが大事なところですが、イエス様はご自分にゆだねられた神の子としての力を、自分の目的のためには一切使わなかったのです。 今日の聖書箇所の中で、イエス様が教師-いわゆる律法学者のことです-教師たちに混じって、話を聞いたり質問したり、とあります。 それは、12歳とは思えないイエス様の知恵を示すものですが、しかし奇跡ではありません。 私は、まるで自分が着ぐるみの中に入っているような感覚、 (もちろん着ぐるみの中に入ったことがあるのは大人になってからですから、あくまでもそんな感覚ということですが) 自分の体が自分ではないような感覚を経験しました。それはもちろん自分で望んだわけではありません。 しかしイエス様はあえてご自分の持っている力を自ら封印し、30歳になるまでは一切力を使わなかったのです。 これが、ピリピ人への手紙2章11節で、イエス様の生涯について言われているみことば、 「神のあり方を棄てることができるとは考えないで、ご自分を無にして、十字架の死にまでも従われた」ということの意味です。 イエス様のなされた最初の奇跡は、宣教を開始した30歳の時に、カナという町での結婚式で水をぶどう酒に変えるというできごとでした。 ヨハネ福音書では、「このことを最初の奇跡として行われた」とはっきりと書いています。 2.  イエス様が30歳になるまでのエピソードがこの箇所しかないというのは、決して偶然ではなく、必然です。 記録がないのは、イエス様が父なる神が定められた時が来るまでは、自分の目的のためには神の子としての力を一切使わなかったからです。 使えなかったのではなく、使わなかったのです。 それは、聖書の言葉から説明するならば、父なる神のみこころに完全に従われたということです。 自分の目的のために、主イエスは神の力、奇跡を、決して用いませんでした。 悪魔の誘惑に対してさえ、イエス様は神の力によって戦うのではなく、ただ三つのみことばだけで悪魔を退けたのです。 しかるべき時、すなわち宣教を開始するその時まで、ご自分に与えられた神の力を決して用いませんでした。 ただみことばだけに信頼して、父なる神のみこころに完全に従われました。 そしてイエス様のこの完全な従順があるからこそ、私たち、この方を救い主として信じる者は完全に救われるし、完全に救われているのです。  以前の礼拝説教でも触れたことですが、私たちが救われるということにはふたつの面があります。 ひとつは、イエス・キリストが私たちの罪のさばきを身代わりになって引き受けたので、私たちは死後のさばきを一切恐れることがない、ということ。 そしてもうひとつは、イエス・キリストが完全に父なる神のみこころに従ったがゆえに、父なる神はイエス様の行いに完全に満足された、 そしてその満足は、イエス・キリストを信じた私たちに注がれて、私たちは存在そのものが主に喜ばれる神の子どもとされたのだ、ということです。 だから私たちは死後のさばきを恐れる必要がなくなりました。それだけではありません。 今生きている人生そのものが、神の子どもとしての祝福に溢れていることを確信し、心から人生を楽しむことができます。 イエス様が誕生から死に至るまで完全に神のみこころに従われたという、その歩みには、この幼少時代のことも含まれています。 イエス様が決してご自分のために力を用いなかったということ。 ただみことばに信頼し、ヨセフとマリヤという両親に服従し、自分の弟や妹たちを育み、30歳になるまでひたすら忍耐を尽くされたということ。 そのすべての歩みが、すべて父なる神を満足させ、それによって私たちの人生の上には、神からの祝福が注がれているのです。 結.  その意味で、この箇所はただ少年時代のイエスを描いているだけではありません。 その人としての歩みの初めから終わりまで、常に父なる神に従い、十字架の死にまでも従い通された、キリストの従順を伝えています。 私たちはしばしば神に従い通すことができず、信仰を持っているのに何でだろと自分を責めることもあります。 しかしイエス様が私たちの代わりに完全なる従順を貫いてくださったがゆえに、私たちは何も心配することも、何も気負う必要もありません。 信仰は頑張る生き方のスタートではありません。すでにイエス様が頑張ってくださったからです。 私たちはその、おいしいところだけいただいているようなものです。しかしこれが福音です。むしろこれを福音と呼ばずして、何と呼びましょう。 みこころに従い通したイエス様のすばらしさにただただ感謝しながら、歩んでいきましょう。