恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.12.3「希望は目に見えない」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

週報はこちらです。

聖書箇所 『イザヤ書』9章1-7節 

1.

 1節をお読みします。

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」
ここに挙げられている地名、ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤといった町々は、イザヤがこの言葉を語った頃、すでに滅んでいました。

正確に言うと、町は残っていましたが、そこに住んでいた人々はアッシリヤ帝国という侵略者によって捕らえられ、外国へ連れて行かれました。

代わりにこれらの町々には、やはりアッシリヤに征服された外国の民が強制的に移住させられてきたのです。

さらにアッシリヤの暴挙は、それにとどまりません。

今度は、その連れてきた外国人たちを、移住を免れたわずかなイスラエル人たちと結婚させ、混血の人々を生み出しました。

これが、イザヤから700年後のイエス様の時代、ユダヤ人と対立していたサマリヤ人の先祖になります。

「はずかしめを受けた」とは、そのように民族の純血が犯されたという意味のことばです。

 しかしどんな重く苦しい暗やみが支配しているところであっても、神の御手が差し伸ばされないところはありません。

聖書を注意深く読んでいきましょう。1節後半では、異邦人のガリラヤは光栄を「受けた」。

2節では、やみの中を歩んでいた民は、大きな光を「見た」。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が「照った」。

「受けた」「見た」「照った」。これらは、すべて過去形、すなわち、すでに実現したこととして語られています。

 現実には、町は荒廃し、人々の混血が進み、イスラエル人としての誇りや希望はすべてが取り去られていました。

しかしイザヤの目には、彼らの上に神からの大きな、暖かい光が差し込んでいく光景が、すでに起こったこととして鮮やかに映っているのです。

これこそ、私たちがどんなに暗い世相や現実の中に生きていたとしても、決して勇気を失うことがない秘訣です。

2.

 毎年クリスマスが近づくたびに、私は30年前に、病院のベッドの上で点滴に繋がれながら迎えたクリスマスの日を思い出します。

体を起こすこともできず、ただぼんやりと窓から空を見上げていました。

空といっても、ベッドに横になっている私の視界には隣の病棟しか見えず、その蔭から太陽がわずかに見える程度でした。

わきに座っていた母親が言いました。「来年の今頃には、きっと家でクリスマスを迎えられるよ」。私はそうだねと力なく頷きました。

人間は時間の中で生きる存在です。

だから、この苦しみがいつまで続くのか、と考え、時がくれば苦しみが去るに違いない、と希望を抱きます。

そしていつまで経っても暗やみが夜明けに変わらないのを見て、絶望します。

しかし永遠の神は、時間を超越しておられます。

人は、時が過ぎるのを待ち望みますが、神にとっては、暗やみも光も、一瞬で溶け去るものに過ぎません。

私たちを取り巻く現実は、確かに苦しみに満ちています。

しかし時を越えている、神の永遠の視点を持つことができれば、夜明けの光はすでにその人の上に差し込んでいるのです。

では、その神の永遠の視点を私たちに与えてくれるのは、いったい何でしょうか。

それは、聖書のことば、神のことば、永遠に変わらない、神のことば以外にはあり得ません。イザヤは別の箇所でこう語っています。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(40:6-8)
 この神のことばだけが、私たちに永遠への視点を与えてくれます。

この世には苦しみが多くあります。その苦しみの現実だけに目が奪われているならば、どんな慰めや励ましも気休めでしかありません。

しかし私たちが聖書を通して、神と、その愛のみわざを信じるならば、光栄を受けた、光が照った、はすでに起こっているのです。

5節では、「戦場ではいた靴、血にまみれた着物は焼かれて、火のえじきとなる」と語られています。

神を信じるときに、すべての悲しみ、苦しみ、痛みを思い起こさせるものは痕跡も残さずに焼き尽くされるのです。

ほんとうの希望とは地上の現実にではなく、この永遠の神のことばにこそあるということを、私たちは決して忘れてはなりません。

3.

そしてその神のみことばは、私たちにはっきりと救い主の誕生を約束しています。6節をご覧ください。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君。私たちはこの救い主がイエス・キリストを指すということをすでに知っています。

人としてお生まれになりながら、神としての性質を持っておられた方。神ご自身でありながら、神の子として謙遜と柔和に徹した方。

ご自分が罪人の身代わりになって命を捨てるという十字架への道を全うされた、まさに平和の君と呼ばれるにふさわしい方でした。

そしてここでもイザヤのくちびるは時を超えて希望をうたいます。「今より、とこしえまでと」。

彼はイエス・キリストが生まれる七百年以上前に生きた人間でした。

しかしにもかかわらず、この救い主を見上げ「今より、とこしえまで」と叫んでいます。

彼の目には、救い主イエス・キリストが十字架で勝利を宣言する光景が、遠い将来ではなく、今目の前に起こっていることとして映っていました。その確信の根拠は何でしょうか。やはり、みことばです。7節の最後、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」。

ここで「熱心」と訳されていることばは、聖書の多くの箇所で「ねたみ」と訳されています。

たとえば、神はねたむほどにその民を愛した、あるいはあなたがたの神はねたむ神である、といった風に。

ねたみ、というと私たちは焼きもちとかジェラシーという言葉を連想し、神がそんな感情を持つなんて信じられないと思うかもしれません。

しかし神はそれほどまでに民を愛しているというのがイザヤの確信でした。

ねたむ神であるからこそ、偶像やサタンに人々の心が奪われていくのを悲しみ、憤り、そしていのちがけで取り戻します。

ねたむ神であるからこそ、ご自分の御子を十字架に渡してまで、人々を救おうとされます。

ここに地上の希望など比べる余地もない、神がいのちがけで成し遂げようとする、ほんとうの希望があります。

永遠の神が、時を超えて必ず実現してくださる、ほんとうの希望があります。

イザヤは今それを確信し、それゆえに「今よりとこしえまで」と叫ばずにはいられなかったのです。

結.

 私たちがただ地上の現実だけを見て、心の目を開こうとしないならば、決してそこには希望はありません。

神がすでに暗やみを打ち破り、光を与えてくださっているというみことばの約束を心から信じて現実を見るときに、そこに希望が生まれるのです。

そして神が私たちに与えてくださった希望とは、このイエス・キリストが私たちのために生まれる、という永遠の約束にほかなりません。

私たちは何という大きな希望を今すでに手にしているのでしょうか。それを私たちはほとんど意識していないかもしれません。

しかしイザヤが時を超えて賛美を叫ばずにはいられなかったほどに、このイエス・キリストが来られるという神の約束は希望に満ちたものでした。

この一週間もひとり一人が、イエス・キリストによって与えられている永遠の希望をかみしめて歩んでいきましょう。