恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.10.8「二つの祭壇」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

先日の松原湖研修会では、「宗教改革500年と聖書信仰」というテーマのもと、200人以上の教師・信徒が集まりました。

しかしテーマ以外にはどういう講演内容なのかが事前に知らされていないので、どうも消化不足の感をぬぐえません。

何でも、近年、藤本満氏の著作『聖書信仰-その歴史と可能性』が福音派の聖書理解に一石を投じたそうであります。

そこでその応答として『聖書信仰とその諸問題』(聖書神学舎教師会編)が出版され、・・・正直言うと、よくわかりませんでした。

「(近)先生は二冊とも読みましたか」と講演中、隣に座っていた某先生から聞かれました。え?

お、おう。当然ですよ。こちとら聖書信仰ですよ。プロテスタンティズムの倫理とナントカの精神ですよ。

読んだふりをしながら、とりあえず講演随所で頷いていましたが、それはともかく、松原湖バイブルキャンプの食事は極上です。

だいたい、ルターの宗教改革が信長誕生よりも早いということがいまだに信じられません。いろんな意味でルターは偉大ですね。

週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』12章10節-13章4節 

序.

 牧師が信徒や求道者の方をカウンセリングするとき、ときとして「逃げる」ことを選択肢として勧める場合もあります。

不信仰ではないかと言われそうですが、聖書は、逃げることはどんな場合でも罪だとは教えておりません。

逃げることが適切な場合もあります。

この創世記の終盤には、アブラムのひまごにあたるヨセフが、兄弟に売られてエジプトで奴隷になったというできごとが書かれています。

美少年ヨセフは、主人の妻から「私と寝ておくれ」と上着をつかまれたとき、外へ逃げ出しました。

この箇所から、なぜ彼女を諭すことをあきらめて逃げ出したのかと、彼の行動を批判する説教を、私は聞いたことがありません。

もし自分ではどうすることもできないとき、逃げることもまた選択肢の一つとして、神が扉を開いてくださることもあるのです。

 もちろんカウンセリングの中で、いつも逃げることを勧めるのではなく、「神様に信頼して、立ち向かいましょう」と励ますことも多くあります。

しかしとくに聖書的カウンセリングは、人々の心の状態それぞれに応じて、もっとも適切と思われる答えを示していくものです。

箴言18章14節に、こういう言葉があります。「人の心は病の苦しみをも忍ぶ。しかし心が痛むとき、だれがそれに耐えようか」。

立ち向かえる心の状態の人もいれば、逃げることが最善である状態の人もいます。

その人の心の状態に応じて、ある時にはとどまって戦いなさい、ある時には逃げなさい、それは決して矛盾でも不信仰でもありません。

あるいはヨセフの場合のように、心が壮健であっても、逃げることが神のみこころであった、そういうことも起こりうるのです。

 では、アブラムの場合はどうだったのでしょう。カナンにききんが起きたとき、彼がエジプトに逃げたことは正しかったのでしょうか。

立ち向かうべきか、逃げるべきか。それを見極める鍵となる、一つの言葉が、12章から13章にかけて繰り返し語られます。

それは何でしょうか。「祭壇」です。

アブラムがカナンに到着してまず祭壇を築き、移動した先で新しい祭壇を築き、エジプトから帰って来て祭壇を築き直した。

これは明らかに意味をこめられて、何度も記されているのです。今日の聖書箇所の直前、12章7節をご覧ください。

アブラムは親子二代にわたる希望の地であるカナンに入り、シェケムで最初の祭壇を築きました。

つぎにベテルとアイの中間地点に移り、そこでもまた祭壇を築きました。なぜ彼は祭壇を築いたのでしょうか。

神を礼拝するためです。より正確に言うならば、自分の生活の中に神が生きておられることを感謝するためです。

1.

 立ち向かうか、それとも逃げるか。それは自分がいるこの場所に、祭壇があるかないかを見極めることによって変わっていきます。

ヨセフが女主人にいた屋敷には祭壇がありませんでした。

文字通りの意味ではなく、神我と共にありと確信できる平安がなかったということです。

アブラムはどうでしょうか。カナンにはすでに祭壇が築かれていました。

何があっても、私はあなたと共に歩みますという信仰の告白がありました。

その祭壇は、ききんが起きたら捨てて他の場所へ行けるほど、軽いものなのか。決してそうであってはならないのです。

私たちも自分の生活の中心に祭壇を築いています。それはどんな教会にも共通している、主日礼拝、そして祈祷会です。

強引に結びつけようとしているのではありません。たとえ時代が変わっても、私たちがより頼むべき祭壇は、礼拝と祈祷会なのです。

私はこう思います。日本にいる、わずか0.6%のクリスチャンたちが、毎週必ず礼拝と祈祷会に出席するならば、

たとえ私たちがまったく伝道らしい伝道をしなくても、神はクリスチャンを増し加えてくださる、と。

 もちろん私たちは色々な理由を持っているでしょう。

日曜礼拝ならば、家族親族との関係だとか、抜けられない仕事があるかもしれない。

祈祷会については、仕事で疲れていて出席できない、教会から家が遠いから難しい、私ももとは信徒でしたからわかっているつもりです。

しかし同じ条件の中で、毎週礼拝、祈祷会を勝ち取っている方も確かにいるのです。

礼拝に出なさい、祈祷会に出なさいと強調されるのはいやだなあと思われるかもしれません。

しかし繰り返して言うのは、牧師や教会のためではなく、みなさんのためです。

今日、礼拝を勝ち取った皆さんは確かに祝福を受け取ります。

祈祷会を勝ち取ろうと決意し、それを実行するならば、ますます祝福を受けます。それは、そこにはあなたの祭壇があるからです。

あなたが今まで築いてきた祭壇は、家族や仕事と天秤にかけたら負けてしまうほどに軽いものなのか、決してそうではないはずです。

 アブラムは祭壇を捨ててエジプトに逃げました。

それは、ききんを切り抜けることのほうが、祭壇の前での礼拝よりも大事だったということにほかなりません。

彼はこのとき、信仰者として最も優先するものを間違えているのです。

目には見えないがいつも祭壇を通して彼の呼びかけを神は聞き、アブラムはそこで平安を受け取っていました。

しかし祭壇を捨ててエジプトの偶像社会の中に逃げていったとき、彼の気づかぬうちに心が悪しきものに囚われてしまいました。

2.

 アブラムには、数えると四つにも及ぶ、悲しい変化が起こります。

 まず第一に、彼はひたすら神に信頼する幼子から、こざかしい小細工をこらす策士になってしまったということです。11節をご覧ください。

「彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている」。

ここには神のみことばだけを信頼して、ただカナンに入ったかつてのアブラムの姿はありません。

かわりに、みことばではなく自分の計画により頼み、家族と口裏を合わせようとするみにくい策士の姿があるのです。

 第二に、彼は、神がともにおられるという平安な生活から、恐れと不安に支配される者になってしまいました。12節をご覧ください。

「エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう」。

神はかつてアブラムをこのように祝福されました。「あなたは、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」。

神がともにおられるならば、どこに行っても、わたしはあなたを祝福しようという、神の励ましがついて回るはずでした。

しかしアブラムは、神よりもエジプト人を恐れる者になりました。平安ではなく、恐れだけが彼を支配していました。

 第三に、アブラムは妻や親族を顧みることよりも、自らの身の安全を優先する者になってしまった。13節をご覧ください。

「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう」。

アブラムは、この妻への言葉がいったいどのような大きな意味を持つのかを理解していませんでした。

もし妻を妹と偽り、サライがエジプトの王パロのそばめになれば、いったいどうなることでしょう。

アブラムは、彼とサライに生まれる子孫からすべての国民は祝福されるという神の計画を自ら破壊する者となるのです。

聖書の記録からは、サライがどんな反応を示したのかはまったく見えてこない。

しかしサラの表情に浮かんでいたのは、深い悲しみか、あるいはもしかしたら夫への軽蔑だったかもしれません。

人が神から離れるとき、配偶者や家族にも、本人以上の大きな痛みと悲しみをもたらすということを私たちは知らなければなりません。

3.

 そして最後に、アブラムはすべての異邦人に祝福をもたらす者から、かえって異邦人にさばきをもたらす者となりました。

17節をご覧ください。「しかし、主は、アブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた」。

神がアブラムを選ばれたのは、彼を通してすべての民族が祝福されるためでした。

しかし彼の間違った行動が、何も知らないエジプト人にさばきをもたらす結果を生みました。

さらに、アブラムの名は、自分が生き残るために平気で嘘をつく者の代名詞として、エジプト人の中に刻まれてしまったのです。

パロはアブラムに言います。「あなたは私にいったい何ということをしたのか」と。

「あなたはそれでもクリスチャンですか」と言われているようなものでしょう。

アブラムはそこから顔を赤らめて逃げ出していくしかありませんでした。

 これはアブラムだけの物語ではありません。私たち自身の姿を映し出している鏡です。

神よりも人を恐れた結果、私たちは信仰の家族を傷つけ、神をあかしするよりもその栄光を貶めてしまうということが起こります。

しかし神に感謝しましょう。たとえそうであっても、聖霊の声に耳を傾けるならば、私たちには悔い改めの祭壇が用意されています。

13章3節、4節をご覧ください。

「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。

そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った」。

もし恵みから落ちてしまったことに気づいたならば、自分がどこから落ちてしまったのかを見極め、そこに戻ることです。

アブラムはそれに気づき、悔い改めました。黙示録の中で、イエス・キリストはある教会に向けてこう語っておられます。

「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」。

結.

 私たちクリスチャンの人生に手遅れはありません。

私たちがどんな失敗を犯しても、その罪を悔い改めるならば、神はその罪を赦し、再び私たちを立ち上がらせてくださいます。

たとえ失敗しても、神は決して見捨てることはありません。

私たちが祭壇のあった場所に戻るならば、神はそこから再スタートを切らせてくださいます。

 そしてその祭壇は、この礼拝の中に、祈祷会の中にあります。

一生懸命な教会は、早天祈祷会とか徹夜祈祷会も行っているでしょう。

そこまでしなければ祝福されないということはまったくないのです。

むしろどんな教会も必ず行っている、礼拝と祈祷会。一週間の中でわずか二回です。

しかし何気ないように見えて、そこには私たちの心を励まし、成長に導く祝福が込められています。

この二つの祭壇を、私たちは大事にしていきましょう。

そのとき、はじめて自分よりも大きなものに立ち向かうことができるようにもなるのです。