恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.9.3「赦せない友へ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

私は説教のタイトルをつけるのに苦労するタイプですが、今日の説教題「赦せない友へ」は説教を書き終えた後、すぐに決まりました。

誤解されるようなタイトルですが、二つの意味をかけています。

ひとつは、救われた後もまだ誰かを赦せない思いの中で苦しんでいる、友人のクリスチャンたちへ。

もうひとつは、牧師として歩んではいても、誰かさんに対する赦せない思いを抱えている自分自身へ。

たとえ人間の感情では赦せない相手であっても、その人はキリストにあって私の友なのだ、と。

ちなみに赦せない相手とは当教会員ではありませんので、念のため。つまずかないでくださいネ。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』18章21-35節 

1.

 「赦せない人がいる」という相談を受けることがあります。

そしてその相談者もクリスチャンで、赦せないという相手もクリスチャン、場合によっては同じ教会員、ということもあります。

いやあ、世の中には人間が80億もいるんですから、赦せない人だって一人や二人はいるでしょ、という軽いノリで答えたいところですが、

真面目なクリスチャンからの相談の場合、牧師も真面目に答えなければいけません。なぜかというと、次にこういう質問が来るからです。

「でも、私が他人の罪を赦さなければ、神様も私の罪を赦してくださらない、と聖書に書いてあるじゃないですか。

だから私は赦したいのです。でもあの人が私にしたことを思うと、頭に血が上って、どうしても赦せないのです」。

 今日の聖書箇所は、まさにその、「聖書にこう書いてあるじゃないですか」と引用される箇所です。

「兄弟が私に罪を犯したら七度まで赦すべきですか」と聞いてきたペテロに、イエス様は「七度を七十倍するまで」と答えられました。

言うまでもなくこれは490回まで赦せという意味ではありません。完全数七をさらに七十倍、すなわち無限に赦しなさい、ということです。

さすがイエス様、懐がデカイ!と言いたいところですが、実際に赦せない相手を持っている人には、あまりにも酷な命令です。

さらにイエス様は「あなたがたも心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさる」とさえ言われました。

赦さなければ、私たちは天の神様から救いを取り上げられて、永遠の地獄へと落とされるということなのでしょうか。

 しかしイエス様のたとえ話に出てくる、この悪いしもべが「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した」という言葉を誤解しないでください。

これは、私たちも人を赦さないならば、せっかく与えられた救いを取り上げて地獄に投げ込まれる、という意味では決してありません。

聖書は、私たちの救いが絶対であるということを教えています。

それは、イエス様の十字架は、過去犯してしまった罪だけでなく、将来に犯してしまう罪のさばきも引き受ける、完全な救いだからです。

すでに信じて救われた私たちが、だれかを赦さないからと言ってその救いを取り上げられて結局地獄に落とされるということは決してありません。

そもそも、地獄とは永遠につづく、いつまでも終わりのないさばきです。

もし「借金を全部返すまで」という期限つきの地獄があったとしたら、そんなものは地獄の名に値しない偽物でしょう。

2.

 では、イエス様が「獄吏に引き渡した」というたとえで表しているものは何でしょうか。

それは、私たちが兄弟、あるいは仲間を赦さないとき、私たちは救われたにもかかわらず、精神の牢獄に囚われてしまうということです。

「赦さない」「赦せない」と心に念じているとき、私たちが苦しめているのはその相手ではなく、自分自身なのです。

ある人、Aさんとしましょう、彼がその友人、Bさんとします、その人からひどい言葉や仕打ちを受けたと仮定しましょう。

Bさんは、かつての自分の言葉や行動がAさんを苦しめて、今も苦しめ続けていることなど想像もしていません。

しかしAさんは決して忘れることはありません。Bさんの何気ない言葉や行動のすべてが嘘つきと自己弁護の証拠にしか見えません。

しかしAさんがいつまでも赦すことができないとき、それで苦しむのはAさんだけです。

もしBさんが、Aさんの苦しんでいることにおぼろげに気づいたとしても、自分が原因だということまでには決して気づきません。

ではどうやったら赦すことができるでしょうか。イエス様は別の聖書箇所ではっきりこう教えています。

 それは、二人きりのところで責めなさいということです。

AさんはBさんと対決しなければなりません。それは、Aさんが自分自身と対決するということでもあります。

Bさんに言っても変わらないだろう、というあきらめを捨てます。Bさんが逆上するかもしれない、という不安を捨てます。

そしてもしそれでBさんが悔い改めたならば、あなたは友を得たのです、とイエス様は語っておられます。

相手が悔い改めたならば、私たちは赦さなければなりません。これが、七の七十倍までとイエス様が言われたことです。

Bさんがまた別のことでAさんを傷つけるようなことばや行動をする可能性もあります。

それでも、また新たなことで傷つけられることがあれば、それをまた二人きりのところで話すことです。

そして悔い改めたならば、赦します。何度でも、何度でも、赦します。

3.

 「赦し」というのは簡単なことではありません。そして時間もかかります。しかし何もしなくても時間が解決してくれるということではありません。

赦しは人の力ではできません。だからこそ、聖霊が私に働いてくださることを祈り、そして立ち上がることです。

二人きりのところで話すという、部外者には何でもなく見えることでも、当事者たちにとっては聖霊の助けがなければできないことです。

しかし聖霊が始められることは、聖霊が完成されます。

聖霊の助けを求めない、人間の心は、絶対にあの人を赦すことなどできないと考えます。

しかしそこに聖霊が関わってくださるときに、「赦さない」「赦せない」という心の牢獄から助け出されます。

「一万タラントの負債をすべて返し終わるまで」という言葉を、私たちは絶望をもって受け止めるべきではありません。

私たちの心を聖霊が照らしてくださり、イエス様がいったいどれだけの負債を私たちの身代わりとして背負ってくださったのかと思い返しましょう。

100デナリの悪さえも見逃さない私たちの心の中に、一万タラントでもはるかに及ばない罪が潜んでいたことを認めるとき、

赦しが薄っぺらい言葉ではなくて、経験、体験として私たちを立ち上がらせる力となるのです。

 多くの人が、今日の聖書箇所を通して、「赦さなければならない」という道徳的な読み方をしてしまいます。

もちろんイエス様は私たちが赦すことを求めておられますが、それは人間の努力では決してできないと語っていることを忘れてはなりません。

このたとえ話に出てくる悪いしもべの特徴を表す、一つの言葉に注目しましょう。

それは、一万タラントという途方もない借金を背負いながら、時間さえあればそれを返せると考えていることです。

26節、「それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った」。

一万タラントは、今日の金額に直すと6000億円。私が市役所に入ったときに、生涯賃金が2億円と言われました。

3000回くらい生まれ変わって、人生を同じようにやり直し続けて、3000回目にしてようやく返せる金額です。

自分も妻子も持ち物も全部売って、一生かけたとしても、とうてい返すことのできる金額ではないのです。

結.

 おそらくこのイエス様のたとえ話を聞いていた弟子たちは、一万タラントなんて、うちの先生は大げさすぎるよ、と笑ったかもしれません。

しかしそうではないのです。人間が抱えている罪という負債は、とうてい自分の力では返すことのできるものではありません。

しかし一万タラントの負債を返せると考えているこのしもべ同様、多くの人々が罪の重荷を軽んじています。

もし赦せない人がいる場合、赦しなさいとは言いません。

誰かを赦すというのは、その人の心に聖霊が働いてくださってこそ可能です。聖霊に頼まず人の決意だけで赦すと宣言することはできません。

しかし、その代わり、この途方もない負債を赦してもらったしもべを、自分自身と重ね合わせながらみことばをかみしめてほしいのです。

その一万タラントの負債は、言うまでもなく、私たちがひとり一人が抱えている罪の重荷です。

このたとえ話の中にいる王は、経済的犠牲を払って赦しました。

しかしイエス・キリストは、自分のいのちを私たちの罪のさばきの身代わりとして捨てるという犠牲を払って、赦しを与えてくださいました。

赦したいけれども赦せない、ジレンマの中で、それでもみことばを受け止めて自分を変えたい。そういう人の心にこそ、聖霊は働かれます。

そして赦せないその人から受けた傷と、自分がイエス様に与えてきた傷とを冷静に比較することのできる落ち着きを与えてくださいます。

100デナリというのは、今の金額に直せば100万円くらいになります。それでも結構な金額ですが、一万タラントはその60万倍。

それだけの大きな負債が赦されたのだということをかみしめながら、兄弟姉妹が赦し合うために、聖霊の力を受けて一歩踏み出しましょう。

聖餐の恵みの中で、イエス・キリストの肉と血が私たちの罪を赦し、そしてお互い同士の赦しをもたらすことに感謝して歩んでいきましょう。