恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.8.6「わが心に立つバベルの砦」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

「恋愛と伝道は一緒」なんて言ったら、つまずきになってしまうかもしれませんが、

言葉を尽くして自分の思いを伝えるという意味では、両者は似通っているのではないかと思うのです。

もちろん人を救いの決心に導くのは、聖霊の働きです。

しかしそれまでの信頼関係の積み上げや、言葉を尽くして自分の思いを伝えようとする「努力」は無駄にはなりません。

バベルの塔の物語は、人間同士、言葉が通じ合わなくなった悲劇です。

しかしむしろ言葉が通じないからこそ、人は自分の持っているすべてを動員してコミュニケートしようとします。

言葉が自由に通じるならば、そこまで自分をさらけ出さなくても済むでしょう。

しかしあえて清水の舞台、いやバベルの屋上から飛び降りる覚悟で臨まなければ、どうしても伝えられないことがあるのです。

だれでも、好きになった相手にそんな経験があるのではないでしょうか。

そして、伝道もまさにそうです。目の前の人を救うために、言葉を尽くして、救い主イエスを伝えます。

だからこそ、一度や二度、言葉が通じなかったからやめてしまうということがないように。

「バベルの塔を築くのをやめてはならない」という意味ではありませんので、そのへんは誤解しないでください。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』11章1-9節 

序.

 先週、リース元宣教師が天に召されたという知らせが入りました。リース先生と聞いてもご存じない方もいるかもしれません。

二年半前にやはり天に召されたマクダニエル元宣教師とともに、新潟の教会の礎を築くために労してくださった方です。

豊栄を担当してくださったのは主にマクダニエル先生でしたが、リース先生は今の山の下福音教会を中心に活動をされていました。

新潟で働いてくださった数々の宣教師の方々の中でも、リース、マクダニエル先生の滞在期間は群を抜いていました。

先生方の働きがあったからこそ、私たち宣教区の諸教会は今に至るまで守られていると言えます。

豊栄キリスト教会の45周年記念誌の中にも、先生方が豊栄を訪問してくれたときの写真が幾つも載っています。

感謝ととともに、ご遺族、とくに奥様の上に豊かな慰めがありますようにと祈ります。

1.

 二年前、宣教区でマクダニエル先生の追悼文集を作りました。リース先生に対しても、同じようにしたいと思っています。

文集作業で一番大変だったのは、40人から寄せられた原稿を、アメリカのご遺族に送るために英語に訳するという作業でした。

私が半年くらいかけて訳したのですが、いま思い出そうとしても、その頃の記憶が欠けているのです。

どうやら脳が思い出すことを拒否しているようです。日本語を英語に直す、それは大変な作業でした。

そこで今日の1節のことばをかみしめます。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」。

うらやましい。ただそれだけです。日本語から英語に直し、英語から日本語に直すとかいうような悩みのまったくない世界。

英検何級とか、トーフル(TOEFL)何点とかで、頭の良さを評価されない、すばらしい世界。

 しかしかつて世界が一つの言葉だったという事実を、聖書は祝福として描いておりません。

むしろ一つの言葉であったゆえに、一人の言葉が瞬く間に広がって、みなが集まって罪の下り坂を転げ落ちていく様を描いています。

この11章の直前、洪水後の世界に降り立った、人類の生き残り、ノアたち8人に対して、神は次のように語られました。

「生めよ、増えよ、地を満たせ」。しかしノアの子孫から増えていった人類は、この神の命令とは真逆の道を愛しました。

4節をご覧ください。「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。

われわれが全地に散らされるといけないから」。「地を満たせ」と「地に散らされるといけないから」。

このとき、神のみこころと、人の願いは、まったく逆を向いていました。

2.

 人類が一つに集まって塔を建てようとしたのは、神に近づくためであったのでしょうか。それとも神を越えるためであったのでしょうか。

言うまでもありません。神を越えるためです。神に近づくためであったならば、神が塔を壊すということはなかったでしょう。

聖書は、多くのことばをもって、私たちが神を求め、神に近づくことを教えています。その中の一つ、ヤコブ4章8節はこう語ります。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」

 しかし人類は、神に近づくためにではなく、神を越えるために集まりました。

そしてバベルの塔は神の介入によって挫折しました。しかし人の心は、今もバベルの塔を建てることに躍起です。

多くの人がこう言います。神などいらない。救いなど私に関係ない。

しかしその人々は群れることによって神がいない孤独を紛らわせます。神の代わりに、人間やモノをあがめ、支配するつもりが支配されています。

神は人間の浅はかな知恵を笑われます。バベルの塔を建てた人々はこう言いました。「頂が天に届く」ほど、高い塔を造ろう。

しかしその塔は、主がご覧になるために、「降りてこなければならない」ほどの貧弱なものでしかありませんでした。

天の御座に着いておられる方は笑われます。人間の、あまりにもむなしい努力を。終わりのない高慢を。

3.

しかし私たちは、この物語が、さばきではなくあわれみを表していることを忘れないようにしましょう。

バベルの塔がどんなに高い建造物であったとしても、永遠の天にお住まいになる神の王座を脅かすものにはなりません。

しかし神が下りていかれたのは、これを野放しにしたら、もっと大きな悲劇が人間たちを襲うことを知っていたからです。6節をご覧ください。

「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない」。

 人が一つの目的をもって集まるということ、それは決して罪ではありません。

しかし生まれつきの罪人である人間は、その目的を達成するために、すぐに道を踏み外してしまいます。

自分は正しい。自分に意見を言う人の方が間違っている。自分のやり方に従えば良い。それが最善なのだ。

 私の心がまさにそうでした。自分がいつも正しく、自分の信仰観が違う人を心のどこかでいつもさばいていました。

15年前、私が牧師として教会に赴任してきたとき、当時の傷ついていた教会をいやすものはみことばしかない、と考えました。

いまもそれは変わっていません。しかしいつのまにか、そのみことばが自分の隠れた傷や劣等感を覆い隠すものになっていました。

もちろんいつもそんな説教をしていたわけではありません。しかし説教の矛盾は、牧会の矛盾に現れます。

自由な教会、お互い愛し合い、赦し合う教会と訴えながら、それが自分の欠けと傷を覆うための方便になってしまっていたことを謝罪します。

結.

 そのうえで、改めてみことばに聞きたいのです。私たちに真の一致をもたらすのは、ことばが人となられたイエス・キリストだけです。

ただイエス・キリストにあって一つとされるという、それこそが私たちに一致をもたらします。

肉による一致は、ひたすら塔の高みを目指します。

しかしキリストによる一致は、神でありながら人として低いところに下られたキリストをいつまでも、どこまでも見つめます。

肉による一致は、メンバーに能力を求めます。

しかしキリストによる一致は、必要なものがすべて与えられることを信じます。能力を求めるのではなく、ただそこにあなたがいることを求めます。

肉による一致は、みなが同じようになることを求めます。

しかしキリストによる一致は、それぞれがキリストのからだの一部分として、多様性の中で神を喜ぶ事を教えます。

 私たちはキリストに選ばれた者として、それぞれが独特のものを与えられています。

それは長所だけではなくて、人から見たら欠点と見えるものさえ含まれるかもしれません。

しかし私たちは、一人の例外なく、みながイエス・キリストによってここに召し出された者です。

キリストから目を離さずに、その姿を模範としてみことばから学び続けるならば、愛とあわれみは私たちの中に生まれています。

イエス・キリストこそ、愛とあわれみのお方であるからです。このお方に、私たちのたましいをゆだねましょう。

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