恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2017.7.30「信仰が弱まったとき」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

故星新一氏の小説に「おーい出てこーい」というものがあります。(いつかの説教でも紹介しました)

道ばたに底知れぬ穴があり、最初にそれを見つけた人が小石を投げ入れます。跳ね返る音もしない深い穴でした。

やがて人々は家庭ゴミ、産業廃棄物、使用済核燃料、○○!だのを次から次へと投げ込んでいきました。

穴はそれらを何事もなく吸い込み、そして何事もなかったかのように存在し続けました。

やがて投げ込んだものを人々が忘れてしまうほど時間が経った頃に、空からひとつの小石が落ちてきます。

小説はそんな不気味なラスト(後はわかるな?)で終わっています。この一週間、私も似た経験をしました。

人の心は底の知れぬ穴のようですが、そこに投げ入れてしまったものは必ず後になって自分に返ってきます。

悪しきものを投げ入れていたことを悔い改めるとともに、投げ入れない勇気を持ちたいと思います。

行き場を失った私たちのすべての悪しき思い・・・そんなものさえも完全に受け止めてくださるイエス様にただ感謝をささげながら。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』11章17-45節 

序.

 まず最初に、先週の説教を振り返ってみます。ベタニヤ村に、マルタ、マリヤ、ラザロという三人の兄弟姉妹が住んでいました。

マルタ、マリヤが女性、ラザロが男性です。今、そのラザロが死にかけていました。

そこでふたりの姉妹は、ふだんから親しくしていたイエス・キリストに使いを送り、この言葉を託しました。

その言葉が3節に記されております。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。

 先週も触れましたが、ここで彼女たちは「ラザロ」と名前を挙げません。「ベタニヤに来て、ラザロをいやしてください」とも頼みません。

ベタニヤから3キロしか離れていないエルサレムの、宗教指導者たちがイエスの命を狙っていることをよく知っていたからです。

だから彼女たちの思いはこうでした。

「主よ。私たちはあなたが今置かれている状況を知っております。ただ、あなたの目をこのベタニヤ村に向かって注いでください。

あなたが愛してくださった者が死にかけていることを、そのお心にとめてください」。

何とすばらしい信仰でしょうか。そしてこの信仰がなくならないように、イエス様は次のことばを使いに託しました。

4節、「この病は、死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」。

これは、ただの慰めの言葉ではありません。

イエス様は、マルタとマリヤが、悲しみの中で信仰が衰えることがないように、この言葉を心の中にとどめておくように願っておられたのです。

40節には、イエス様がマルタに次のように言われています。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。

これがまさに4節の言葉を指しているのです。わたしがあなたにあらかじめ伝えておいた、あのみことばを忘れてはいけないよ、と。

1.

 私たちは、悲しみや苦しみの経験を通して、信仰が成長していきます。もちろんこれは決して間違いではありません。

しかし悲しみの経験を通れば自動的に信仰が成長するというわけではありません。

悲しみや苦しみの中で、与えられたみことばにしがみつくことを忘れ、ただ時が過ぎるのを待つだけなら、信仰はむしろ鈍くなっていくのです。

みなさんは、今日の聖書箇所で、マルタとマリヤのふたりのイエス様に対する第一声がまったく同じ言葉であることにお気づきでしょうか。

 姉のほうのマルタの第一声は、21節に書いてあります。

「マルタはイエスに向かって言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』」。

 次に妹のほうのマリヤの第一声を探してみましょう。それは32節に書いてあります。

「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。

『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』」。

 四日前の言葉と比べてみましょう。「主よ。ご覧ください。あなたの愛しておられる者が病気です」。

彼女たちの信仰はどう変わったでしょうか。残念ながら、むしろ弱まってしまっているのです。彼女たちのかつての信仰は次のようでした。

イエスの身を案じながら、「どうかイエス様、あなたの御目を愛する者に注いでください。

あなたは私たちがラザロと言わなくても、あなたの愛する者ということばだけでおわかりになるお方です。

どうか、その愛を、いまおられるところで私たちにお注ぎください」と。彼女たちの言葉の行間には、そのような驚くべき信仰が流れています。

 しかしそのふたりが今、口を揃えてこう言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。

なぜふたりの姉妹の口からはここまでまったく同じことばが出てくるのでしょうか。

この四日間、顔を合わせるたびに、この言葉をどちらからともなく口にし、ラザロの死をひたすら嘆き続けてきたからです

彼女たちは、悲しみの中で信仰を窒息させられつつありました。

「この病は死で終わるだけのためのものではなく、神の栄光のためのものです」というみことばを忘れかけていました。

もしイエス様がここにいてくだされば、ラザロは死ななかった」。

四日間つぶやき続けた、人間の言葉としての「もし」が、彼女たちが使いに託した言葉にあった信仰を追い出してしまっていたのです。

2.

 人間が過去を振り返ってつぶやく、「もし」という言葉は、神のご計画と相反します。

あの時、こうしていれば。人はそうつぶやいて、自分のことばや行動を後悔します。

しかし今起きていることで、神にとって想定外というできごとはないのです。すべてのできごとは、神が栄光を表されるための布石です。

あるいは、私たちに自分の罪を悔い改め、イエス・キリストが与えてくださる罪のゆるしに目を留めさせるためのものです。

聖書の別の箇所にはこうあります。

「神のみこころにそった悲しみは、悔いのない、救いに至る、悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」。

 本当に、イエス・キリストがここにいてくれたら、ラザロは助かったのでしょうか。

ここでぜひ覚えていただきたい聖書の物語があります。このヨハネの福音書4章に書かれている、いやしと奇跡の記事です。

ある役人が、自分の息子の病をいやしてもらおうと、はるばる旅をしてイエス様のところにやってきました。

そして家に来てくださいと頼むのですが、イエスはこう言われます。「家に帰りなさい。あなたの息子は直っています」。

そしてこのとき聖書ははっきりとこう書いています。「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた」と。

帰途の中で、彼は家から駆けつけてきたしもべたちに出会い、息子が直ったという喜ばしい知らせを受け取りました。

そしてしもべたちに、息子が直った時刻を聞くと、何とそれは「あなたの息子が直っている」と言った時刻と同じでした。

そして家族も、しもべたちも、みながイエスを信じました。

3.

 たとえラザロがいたベタニヤから何十キロ離れたところにいたとしても、イエス様にとっては、ことばだけで彼をいやすことができたのです。

使いがやってきたとき、すでにラザロが死んでいたとしても同じことです。三百年前のピューリタンの牧師がユーモアたっぷりにこう語っています。

「『ラザロよ、出てきなさい』。もしここでイエスが、ラザロと言わなかったならば、世界中の墓場から死人がよみがえっていたことだろう」。

つまり、ことばだけで病をいやす方は、ことばだけでよみがえらせることができます。ベタニヤから離れていたとしても、同じことです。

しかしあえてそれをしなかったのは、ラザロがよみがえることを通して、それを目撃した人々が神を信じるためでした。

 そうなると、ラザロは神の栄光のために、死に至る苦しみを味わわなければならなかったのでしょうか。

そうです。だからヨハネは次のことばをはっきりと記録しています。「イエスは涙を流された」と。

イエス様は、ラザロの収められた墓の前で、ラザロが経験した苦しみを悲しみ、涙を流されました。

しかしラザロは確かによみがえりました。そして、よみがえったのはラザロだけではありません。

その前に、主はマルタとマリヤの信仰もよみがえらせてくださったのです

25節をご覧ください。今日の聖書箇所の中でもっとも心に刻みつけるべき言葉です。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか』」。

 それに対して、マルタはこう答えました。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」。

これは今までも信じてきたし、これからも永遠に信じ続ける、という意味です。

「もしイエス様がここにいてくだされば、ラザロは死ななかっただろう」。

姉は妹を、妹は姉を巻き込んだつぶやきは、この信仰告白によって完全にかき消されました。

結.

 私たちが生きるということは、悲しみ、傷つきながら生きることです。

クリスチャンになったらスマートに生きられるかと言ったらとんでもない。ズルズル、みっともないものです。恥も外聞もありません。

それでも神のことばにしがみついていくならば、神は私たちをもう一度立たせてくださいます。

何度も座り込んでしまうような痛みの中でも、その都度語られた神のことばを思い出し、

自分の心を、神の御霊に探っていただいて、悔い改めるならば、私たちはもう一度立たせていただけます。

 そのために今日の聖書のことばが語られたとは思いませんか。

かつては驚くほどの気高い信仰を示したのに、濁流のような様々な試練と苦難の中で、信仰が弱まってしまうということがしばしばあります。

実際、私たちの信仰生活は、いつも右肩上がりでまっすぐ突き進んでいけるほど、安易な道ではありません。

しかしそんな私たちのために、イエス様はいつもとりなしてくださり、約束のみことばを与えられるのです。

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」。

ラザロ、マルタ、マリヤ、それぞれの上に神の栄光が表され、そして多くの人々がイエス様を信じました。

私たちが様々な苦しみの中を通らせられていくとき、そこでみことばにしがみつくのです。それが神様の栄光を表していくことなのです。

ラザロが死からよみがえったように、私たちも今日イエスを信じるならば、今このときからよみがえりを経験します。

「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」。イエス様の約束を心に刻みつけて、歩んでいきましょう。